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空襲警報が発令されると飛行機は退避?(太平洋戦争)

「幻の本土決戦第5巻」という本に、 「(昭和20年4月ごろ)敵小型機の来襲に対して、全く手も足も出せなかったころだ。(略)空襲警報が発令されると、茂原の飛行場に残っていた飛行機は、いち早く飛び立って行く。しかし、これは敵を迎撃するためではない。安全な地帯に退避するためだ。敵機がいなくなり、安全になれば帰って来る」 とありました。 普通に考えれば、いち早く飛び立って上空で待機して、奇襲攻撃をかけると思うのですが、どうして退避行動をするのでしょうか。 本によればある日ゼロ戦が敵六機に対して、たった一機で立ち向かい、すぐに撃墜されたそうです。

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  • ytakashi
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回答No.3

こんばんは、yoshinobu_09さん。 >「幻の本土決戦第5巻」という本に、 スミマセンがその本の事は知りません。 ただし、海軍航空隊に所属していた父親から聞いた話しと、私の個人的な知識から説明(推測を含む)させて頂きます。 開戦当初はゼロ戦はアメリカ軍機よりも性能が良く、撃墜率は圧倒的にゼロ戦が有利だった、しかしアメリカ軍は撃墜したゼロ戦の機体を本国に持ち帰って研究して、優れた日本の航空技術を解明してゼロ戦よりも戦闘力の高い戦闘機を開発した。(日本軍も戦争末期までに新兵器のジェット戦闘機の飛行テストまでは成功させていたらしいですが、時既に遅し) 戦争末期には日本の戦闘機(零式、飛燕、紫電回など)は、空中戦ではアメリカの戦闘機に歯が立たなくなっていた。 背景、昭和20年4月頃。 アメリカ軍の激しい空爆による軍需工場の破壊、日本国内では制海権、制空権を奪われた事により海外からの輸送(原油や鉄鉱石)が途絶え物資が枯渇していた。(各家庭に有る全ての金属を軍に対し拠出せよ、寺の釣鐘から生活に必要な鍋釜以外の鉄の食器類、果ては女性のヘアピンまで) 日本には既に新しい戦闘機を製造する工場も物資も無かった。 戦争末期の特攻用のゼロ式戦闘機はコックピットの周りが布や木材で造られていたそうです。 航空隊所属の通信兵だった父の毎日の仕事は、山から切り出した材木でダミーの戦闘機を造って銀紙を貼り、滑走路付近に並べる事だったそうです。(戦闘機は森の中に隠しておいて、ダミーの方を攻撃させて本物を破壊されないようにして温存するため) 日本軍首脳部は真剣に本土決戦を考えていて、本土(日本国内)で敵を迎え撃つために戦闘機を残しておきたかったらしいです。 士農工商制度は廃止されていましたが、実質的には公家や上級の武家の出身者は大切な人間で、一般市民はいくら死んでも構わないどうでもよい生き物という考え方が根強く残っていた。 (国民の命を守る事よりも、本土決戦のための武器(戦闘機)の方が大切だった) 父の所属していた航空隊は付近に戦闘機を隠す事が出来る森が有りましたが、茂原飛行場は周りに深い森が無かったので敵機が来襲した場合は安全な場所(空?)に避難させていたのだと思います。(空爆をされて民間人は死んでも構わない、でも本土決戦用の飛行機は守る) アメリカ軍のB29戦闘爆撃機(通称、空の要塞)が本土の爆撃を始めた頃は多少ですがゼロ戦による迎撃も行われていたそうです。 でも、機銃を撃って撃墜するのではなくて、B29に対しても体当たりの特攻戦法で撃墜していました。 なんと、日本軍のパイロットは高度1万メートルでの戦闘を気密室になっていないゼロ戦で行っていたらしいです、頭痛と吐気と目まいや幻覚などでフラフラの状態で戦えるのは30秒間くらい、空の要塞B29には近付く事すら出来ずに打ち落とされる事が殆んどだったという話です。 (極まれに体当たりに成功して撃墜した事も有るようで、私の母親は体当たりの瞬間を見ていた事が有るそうです) まあ、色々と余計な事まで書いてしまいましたが、要するに敵の戦闘機と空中戦をしても勝てないので、無駄な戦いはしないで隠れていた。 ゼロ戦は空中戦用ではなくて、本土決戦を行う場合の対地上戦用の武器として残しておく必要が有った。 しかし、広島と長崎に相次いで投下された原爆の威力によって、本土でアメリカ軍を迎え撃つという軍首脳部のもくろみは断たれ、日本は無条件降伏に調印して終戦を迎えた。

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  • phj
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回答No.11

簡単です。B-29の巡航高度に迎撃機が達することができなかったからです。日本軍の攻撃は対空砲火しかありませんでした。 B-29はターボ過給機をつけ、酸素の薄い高度から爆撃しました。当時の日本軍の航空機でこの高度に達する能力のある飛行機はありませんでしたし、米軍ですら戦闘機はありませんでした。爆撃機という大きな機体だから過給機を乗せられたのです。 その高度に届く迎撃システムがなければ、B-29だって大陸弾道弾だって同じだけの威力を発揮します。

  • mechano23
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回答No.10

同じことを聞いたことがあります。 友人の父上が大戦中の飛行機乗りで(戦闘要員ではなく、 機体を工場から基地へ運ぶのが主な任務) ラバウルで敵機の来襲に会ったときとにかく貴重な機体を地上で爆撃に為すすべもなく晒してはならない、 飛び立てとの命令があったそうです。 上空に飛び立つと見渡す限り敵機。 無我夢中で逃げ回っているうちに奇跡的に助かったが一切こちらから攻撃はしなかったそうです。 逃げれば助かる可能性がゼロではない。 奇襲攻撃などかければ多勢に無勢でまず間違いなく撃墜される、 ということでしょう。 迎撃はせず雲にまぎれてこっそり着陸し、無事帰還。 先日米寿の祝いでした。

  • isa-98
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回答No.9

良く知ってますね。^^ 全部読みました。(これは久々でしょう。) 月光は対戦闘機戦が出来ない(ほぼ不可能な)機体です。 退避させるだけの価値がありましょう。 一方、三式戦は使えないので、 塗装をはぎ落とし、武装を全部降ろし、体当たり隊を結成しています。 6月以降に積極的な迎撃の全てを控えるよう指示(退避)令があります。(陸軍は5月と言う説もある。) 4月の二五二空総力戦の間には「絶対無かったと断言出来ます。」 また、3月10日の大空襲も、全部が焦土化した訳ではないので 未だ帝都防空を諦めた訳ではありません。 5月25日に米軍は作戦の一分を成功させ、 6月以降は焦土化していると思います。 するだけ無駄であったのです。 陸制号20年7月発令ですね。^^ 参考までに。^^

回答No.8

 大きく二つの理由があります。  1945年(昭20)4月当時、日本陸海軍は本土決戦準備に入っており、機材と燃料を節約するため特攻以外の兵力を温存する方針でした。従って壕に隠したり、空中退避させる措置を採っていました。しかし、やがて空襲が地方にも及び国民全般の戦意低下の懸念が生じたために陸軍は、同年7月「制号作戦」を発動しB-29迎撃態勢に移行することとしましたが、このころ実際には手も足も出ない状況となっていたため空手形に終わりました。  つぎに、当時の日本陸海軍の戦闘機は、アメリカのF6FやP-51とはまともに戦っても勝てなかったため、最初から防空の対象は爆撃機としていました。質問文の「敵小型機の来襲に対して」とあるのはその理由だからです。たとえば大東亜決戦機と期待された四式戦でさえじっさいにはトラブルが多く本来の性能が出せず、多くの機体が特攻に使用されてしまいました。しかもB-29迎撃も大変でした。彼らは富士山まで北上してそこで旋回し偏西風(寒冷前線ジェット気流)に乗り一気に帝都へ侵入して来ました。いっぽう日本機は警報を受けて彼らより優位な高度に到達するまでが実に大変なことで、息絶え絶えで高度をとり運良く出会えても一撃かけられるかどうかというのが実相でした。飛び立って4、5分で1万メートルに到達するなど夢物語で、このため迎撃可能は夜間の低空爆撃のみとなり、海軍では斜め銃装備の夜間戦闘機の登場を見たわけです。ちなみに渡辺洋二『隊員達の写真集 本土防空戦 海軍航空隊篇』(徳間書店)には厚木空の月光夜戦隊が空中避退する写真が載っています。なお、陸海軍航空部隊は直接サイパン島の爆撃基地やウルシーの空母港を攻撃するという決死的作戦を実行しましたが、これも本土迎撃が不可能という理由からです。  しかしながら、やがて地方都市が破壊つくされ爆撃対象がなくなり、今度はアメリカ戦闘機による昼間低空掃射攻撃が本格化すると、もう日本戦闘機は飛ぶに飛べず「制号作戦」の意味がなくなったのでした。  

  • danke3
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回答No.7

私の想像です 空中戦で対抗できる、飛行機の性能と数と機銃の弾薬が不足していた パイロットが未熟(プロ中のプロのパイロットはミッドウェー以降、激減) で、米軍が上陸してきたら、乾坤一擲の特攻を仕掛けて 水際で殲滅といった夢みたいな作戦を考えていた 人間が爆薬を抱えて戦車の下にもぐりこみ、爆破する訓練もやっていた らしいし 因みに、その頃、私の父は台湾から日本に戻り 福島県の牧場を飛行場代わりにして 5機の飛行機で特攻の命令を待っていましたが、命令は出ず 死なずにすみました 当時父は17歳、飛行時間も300時間に満たないヒヨコです 夜間飛行の経験も数回だけと言っていました 空中戦の経験はありません

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.6

まああなたがヤクザの事務所の電話番をひとりでやっていると思いなさいな。そこへ、敵対する組の連中が何十人もやってきたとします。こんなとき、どうすればいいでしょうか。 そうですね、とりあえず間に合ううちにどっかに逃げますよね。それで、その敵対する組が事務所をボコボコにしてひととおり終わって帰ってから「やれやれ」と後片づけを始めるでしょう。こんなときにうっかりはしっこの奴を後ろから襲ったらそれこそ多勢に無勢でひどい目にあいます。 老人ホームに勤める友人がお年寄りから聞いた話です。昭和20年、そのおじいさんはインドネシアの飛行場に対空部隊としていたそうです。しかし、空襲警報が鳴るとみんな反撃は一切せずに防空壕へ避難したそうです。すると、米軍もわかっていてどこかそのへんの森に爆弾を落として帰っていくそうです。 ある日、ある若い兵士が何を思ったのか銃座に座って反撃したんだそうです。当然、米軍機に襲われて死んだそうです。それを見て「みんな」が「バカだなあ。どうせ(今さら)戦ったって(もう戦争には)勝てないのに」と思ったそうです。 実際問題、米軍による対日爆撃による損害率は1%程度と、戦後の戦略爆撃調査団をして「損害は皆無といえた」と言わしめるほどのものでした。B29の乗組員の心配事は日本軍の反撃ではなく、実は故障率が高かったB29の機械的故障だったのです。

  • tande
  • ベストアンサー率12% (22/179)
回答No.5

アジア歴史資料センター http://www.jacar.go.jp/ レファレンスコード C08051664100 昭和20年2月~昭和20年6月 252空 飛行機隊戦闘行動調書  二五二航空隊の飛行機隊戦闘行動調書によれば茂原基地より発進した零戦は敵爆撃機や敵戦闘機と交戦していると記録されています。 上空に退避行動を取っていないとは断言できませんが、全く迎撃任務をしていないということは考えづらいと思われます。

  • isa-98
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回答No.4

4月は菊水作戦に参加中で304しか残っていません。 304も殆どが出払っています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E4%BA%94%E4%BA%8C%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E9%9A%8A#.E5.86.85.E5.9C.B0 http://ameblo.jp/pico3298/entry-10015159445.html >全く手も足も出せなかったころだ。 4月は本体が殆ど特攻作戦に従事しているのですから、 考えようによってはあまりに史実に反しているとも言えます。 失礼極まりない「小説」となります。 少なくとも私は残留304遺族の為、 証拠や根拠が明白でなかったり、嘘であれば絶対に記載できない。 残留機はわずかしか残っておらず、消耗して退避したのです。 別に終戦まで逃げ回って戻った訳じゃないです。 http://www.mobara.ne.jp/katoshin/html_pages/hikoujyou.html 途中を削除すれば退避し、安全になったので75機帰ってきたとなります。 文屋なのでペンで人の見えない部分をを刺し続ける癖がる。 悪だと思うと攻撃をやめない。 陸軍兵以下とまでは言いませんが、 客観性には相当な問題があり、 主観が強い(幻だ) 結論は先にあり、これを肯定化させる作業の場合が多い。 新聞社、ニュース、NHKであれ、留意して見ています。(アサヒなど) >ゼロ戦が敵六機に対して、たった一機で立ち向かい 友軍や市民が火達磨になっているのを黙って見ていられる。 これが出来る人間は「本当の鬼か悪魔だ。」そうです。 軍人と言う「ゴミ」でも絶対出来ない事があります。

  • ymmasayan
  • ベストアンサー率30% (2593/8599)
回答No.2

制空権のない中でみすみす飛行機を失いたくなかったのでしょう。 かなり近くに掩体壕という飛行機を隠した小山(塚)みたいなのがいくつもありますが、 最後は低空飛行で焼夷弾?か機銃掃射でほとんどやられてしまったらしいです。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E4%BA%951%E5%8F%B7%E6%8E%A9%E4%BD%93%E5%A3%95
  • k16399638
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回答No.1

そのころだと、艦載戦闘機、P51がうろついていると思います。戦闘機相手の苦手な飛行機(インターセプターのJ2など)は、戦闘機相手にできないのと、茂原ではレーダー・サイトからの早期警報がこないからでしょう。あと飛行機、のなかには戦闘機以外の機材もあったとおもいます。それもふくめた、空中退避だったのではないでしょうか? 空中戦に、必勝はありませんが必「生」なら戦闘機に限りあります。急降下、急上昇を繰り返すことです。エースだった武藤大尉は新米の部下にそう言って諭したそうです。