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輪廻転生について
カテゴリーがあっているかどうかわからないのですがこのことに ついて詳しく教えていただければと思います。 またわかりやすく説明している著書がありましたら 教えてください。 恥ずかしながらこれでも仏教の高校を卒業し授業も 受けていたのに、言葉だけで頭に残っていません。 いまさらながら少し勉強してみたいと思っています。 よろしくお願いします。
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これは難しい問題なので、簡単に述べます。 「輪廻」と「転生」は別の概念です。普通、一緒にして「輪廻転生」と言いますが、違う意味内容の言葉・概念です。 「転生」というのは、「生まれ変わり」ということで、世界の文化でほぼ普遍的に認められ、存在する考え方です。亡くなった人が、再び、別の人として、子供として生まれてきて、この世に「帰って来る」というような考え方です。 「転生」の場合にも色々と条件が付く場合があります。文化ごとでそれは違っています。例えば、良い行いをした人は、今度生まれてくる場合は、良い境遇に生まれてくるとか、生涯敵同士として闘い、殺し合った二人は、今度生まれて来るときも、敵同士になるとか、愛し合う二人は、今度生まれて来るときには、また恋人になるなどです。 一般的に、転生は、家族や親族内部で、または共同体の内部で起こるというのが普通の考えです。 「輪廻」というのは、サンスクリット語で「サンサーラ」と言い、元々ウパニシャッド思想(紀元前8世紀から6世紀頃)において、梵我一如(「ブラフマン=梵」と「アートマン=我」は本質的に同一であるという思想)の原型と共に、輪廻の思想も形成されました。 ウパニシャッドの輪廻の考え方では、「太陽の道」と「祖霊の道」というものが考えられ、後者は、「転生」の概念にほぼ近い考えで、死んだ後、魂は、雨水などと一緒になって、天から下りてきて、また女性の胎内に入り、生まれて来るというような考えです。 「太陽の道」は、「祖霊の道」を歩むと、どこまで言っても、転生を繰り返すに対し、死後、ある方法で、太陽の道に進ことができると、もはや、この世には、再び転生して来ない道があるという考えです。 「輪廻」とは、転生のなかで、「業(カルマ=行い=生前にどういう行動・生き方であったか)」によって、次の転生先や転生のあるようが決まり、この決定規則は厳密なもので、機械的に起こり、動物をむやみに殺していると、転生先は、殺していた豚や牛になるとか、ブラフマ階級の者は、儀式を行っている限り、転生してもブラフマ階級であるとか、非常に細かく規則が決まって来ます(それには、長い時間がかかりましたが)。 ヒンドゥー教、ヒンドゥー思想では、この運命決定論的「輪廻思想」が正しいとされています。その一方で、「不二一元論=ブラフマンとアートマンは本質は一つであるという思想」もヒンドゥー思想の中核にあり、輪廻論と、不二一元論は、どう調和するのかは、結局、輪廻もこの世の生も、すべて「幻(マーヤー)」であるということになります。 マーヤーから脱し、個人のアートマンが覚醒して、ブラフマンと一致するとき、輪廻の幻からも脱出するのであり、これを、「独存」とも言います(仏教では、「解脱」と言いますが、ヒンドゥー教では、違う表現ですし、内容も違います)。 「輪廻」というのは、元々古代インドに始まり、時代と共にインド文化で洗練されて来た、転生についての理論なのです。 仏教の「六道輪廻」は、このインドの輪廻思想と非常に密接な関係にあります。仏教はヒンドゥー教の異端とも言え、民衆に広く流布して行くと、ヒンドゥー教との境界が曖昧になります。仏陀釈迦牟尼は輪廻を唱えていませんし、その後の代表的な仏教思想家たちも、輪廻は説いていませんが、仏教の教えの一部に入り込んでしまいます。 仏教では「諸法無我」と言い、もろもろの事物には、それ自身で存在しているという性質(自性)がなく、従って実体でもないので、相互作用のなかで、変化する必然にあり、従って、「無常」であり、転生とか輪廻などは、「ない」というのが妥当なはずです。 しかし、仏教のなかに、輪廻の思想が実際には含まれていて、仏教の教えの一部としても、かなりな重要性で一般の人のあいだで説かれているので、仏教の輪廻思想、つまり、六道輪廻などの考えと、根本テーゼである、諸法無我はどう調和するのかという議論になり、「輪廻する主体=実体は何か?」ということが、仏教思想で重大な問題として、紀元の初期前後から議論されて来ました。 結局、そのような「実体=主体」は「ない」というのが、最初から分かっていた結論だったとも言えます。色々なものを輪廻の主体、つまり業(カルマ)の蓄積と転生での継承の主体と考えても、どうしても、そのような主体は、自性を持つ実体の側面を持つので、諸法無我と矛盾してくるのです。 仏教における六道輪廻については、それこそ、無数の解説書があるはずです。しかし、転生や、特定の形式の転生を、また広義に「輪廻」と呼んだ場合の輪廻は、世界中の文化に存在する考えです 例えば、西欧キリスト教文化でも、転生の考えは残っています。亡くなった祖父の名を、生まれて来た男の子に付けるのは、新生児が亡き祖父によく似た特徴があるとき(血のつながりがありますから似ていることは起こるのです)、これを亡き祖父の転生と考える思考があって、こういう命名をした古い時代の伝統が残っています。 中世キリスト教の異端または異教である「カタリ派」は、独特の輪廻思想を持っていたことが知られています。 輪廻転生というと、すぐ仏教に結びつけるのではなく、仏教の輪廻思想は、ヒンドゥー思想の輪廻の影響の元に生まれた考えであること、また、輪廻も転生も、世界の文化で、色々な形の考えがあるのだという視野が必要でしょう。 オンラインのブックショップの「アマゾン・ジャパン」で、「輪廻」とか「転生」のキーワードで検索してください。自分で、参考書を探す努力をすべきでしょう。 (仏教における「輪廻の主体」の問題については、次の質問の回答が、比較的に正確な話になっていると思います): >No.431743 質問:輪廻の主体は何なのでしょうか >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=431743 >アマゾン・ジャパン >http://www.amazon.co.jp/
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- golgol
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PHP研究所から、飯田史彦著「生きがいの創造」と言う本がでています。 生まれ変わりを科学で解き明かすといった内容で私のような無宗教、無哲学な 人間も抵抗無く、ファンタジーとして読みました。 是非、ご一読をお勧めします
お礼
お礼が遅れまして申し訳ありません。 参考にさせていただこうと思い本屋めぐりを しましたが見つけることができませんでした。 再度、探してみようと思います。 ありがとうございました。
- hmori
- ベストアンサー率28% (24/85)
仏教で言うところの六道輪廻ですね。 六道とは、すべての衆生が生前のカルマによって転生を繰り返す、 六つの迷いの世界のことです。 すなわち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界のことです。 人生を生きるということは修行の場であり、 辛いことなのです。 したがって、解脱という概念は、 もうお前は人間なんてやらなくてもいいよ・・・ という悟りを開いた状態、ということです。 金子光春の遺作になった「六道(りくどう)」という詩は、 素晴らしいですよ。
お礼
回答ありがとうございます。 >地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界 まさに授業でならったことでした。 この6つの言葉も一つ一つとても奥が深いですよね。 >金子光春の遺作になった「六道(りくどう)」という詩は、 素晴らしいですよ。 教えていただいてありがとうございます。 一度、読んでみようと思います。
お礼
お礼が遅れまして申し訳ありません。 とてもわかりやすく、丁寧に答えていただきありがとうございます。 本などよまなくてもこれだけの説明で、だいぶ理解できるように思います。 というか、授業できいた覚えがあり、記憶がよみがえって きました。 >輪廻転生というと、すぐ仏教に結びつけるのではなく、仏教の輪廻思想は、ヒンドゥー思想の輪廻の影響の元に生まれた考えであること、また、輪廻も転生も、世界の文化で、色々な形の考えがあるのだという視野が必要でしょう。 とても参考になりました。 やはり仏教の言葉というイメージがありましたので。 オンラインブックの件もアドバイスありがとうございます。 本を探すさいの参考にさせていただきます。 ほんとにありがとうございました。