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鎌倉時代の季節感って?

いつもお世話になっております。 百人一首に次のような歌がありますね。 風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆 この歌は 「風が楢の葉をそよがせる楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。六月祓(水無月の大祓)はのみそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。」 という意味だとされています。 現在では「水無月の大祓」は新暦の6月30日に行っているところがほとんどですが この歌が詠まれた鎌倉時代には旧暦の6月晦日に行っていたはずです。 旧暦の6月晦日は新暦では7月ごろのことだと思います。 この歌は京都の上賀茂神社の大祓を読んだものだそうですが 京都の7月って暑くて秋の気配など微塵もないです。 旧暦では 春→1月・2月・3月 夏→4月・5月・6月 秋→7月・8月・9月 冬→10月・11月・12月 だったのですよね? とすれば、新暦ではだいたい8月・9月・10月が秋となりますが 8月・9月は現代では最も暑い季節です。 (お盆すぎればちょっとはましですが) 日本書紀には「仁徳天皇が秋に高台で涼をとった。」という記述もあり、秋は暑い季節という認識があったのかな、とも思います。 もしかして家隆さんが「すっかり秋の気配が漂っている」というのは 風が吹いて涼しいから、というわけではなかったのでしょうか? それとも今とは気候が違っていたのでしょうか。 鎌倉時代の季節感ってどういうものだったのでしょう?

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回答No.1

面白いところに着目しましたね。 たしかにこの時代は暖かいです。 全地球規模の温暖期と言われています。 なので昔の絵巻に出てくる家には雨戸が見当たりません。 暖かかったので必要なかったようです。 ただ今のような蒸し暑さでは無かったようですよ。

noname#89501
質問者

お礼

私もこのころ、温暖期だったと聞いたことがあります。 この歌が読のは九条道家の娘・竴子が入内したとされる1229年ですが 調べるとその2年後の1231年には「寛喜の大飢饉」が起ってるんです。 「寛喜の大飢饉」の原因となったのは1230年の不作だそうで 長雨と冷夏、さらに暴風雨によって農業は大打撃を受けたのだそうです。 でも、1229年がどうだったのかはわからずじまいです。 雨戸がないのは暖かかったためなんですね。 知りませんでした。 回答ありがとうございます♪

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  • sosdada
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回答No.2

 今年の旧暦6月晦日は6/29で、新暦の8/19です。上賀茂神社あたりなら、たぶんやっと涼しくなりかけます。  「すっかり秋の気配が漂っている。」 というより、「秋を思わせる」でしょう(「名歌名句辞典」三省堂)。「秋」とは一言も言わず、本歌取りの「夕暮れ」と「夏のしるし」で遠まわしに秋を連想させているだけなのですから。「すっかり」とまで言い切ってはいけません。  なお、この歌は正岡子規が明治時代に「写生」を唱えるまでの鎌倉時代つまり「新古今和歌集」選者の家隆の時代の歌です。しかも本歌取りですから、実際の情景でなくても「うまい」歌と「理想的な架空の情景」が好まれた時代ですので、実際には「盆過ぎの北山なのに、超暑い」にもかかわらず、こう詠んだのかもしれませんよ。

noname#89501
質問者

お礼

詞書によれば、1229年11月16日に、九条道家の娘・竴子(のちの藻壁門院)が後堀河天皇に入内する際、月次(つきなみ)屏風に添えた歌であると記されています。 1229年の旧暦6月30日を新暦に換算すると、7月22日になります。 もちろん、その年に読んだとは限らないのですが。 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ietaka_t.html では「禊ぎだけが夏の気配を残している」とあり 他には夏を感じさせるものがないということだと思うのですが。 みそぎするならの小川の河風に祈りぞわたる下に絶えじと   夏山のならの葉そよぐ夕暮は今年も秋の心地こそすれ の本歌取りだったのですね。知りませんでした~ 実際の情景でなくても「うまい」歌と「理想的な架空の情景」が好まれた時代、なるほどですね~ 回答ありがとうございます♪

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