- 締切済み
死なないでいる理由がない。欲望と禁欲
とても暗い内容になるのでご了承ください。 私には死なないでいる明確な理由が現時点で見当たりません。 ここ何年かは死ぬときの物理的な痛み、または自殺ミスのリスクを考慮し、その理由を探してきたのですが、難しいです。 幼少期からキリスト教原理主義の教義を教えられてきたので、いつの間にか私は根っからの禁欲主義者になってしまったらしく、社会を肯定的にとらえることは難しく、色々な面で絶望的な気持ちになります。禁欲主義はそもそも現在を否定し、天国や楽園にいくというような未来を肯定的にとらえる考え方だと思うのですが、天国や楽園を信用していない私にとって、現在も未来も肯定できない状態です。 生を肯定できない原因は、幼い頃からの原理思想教育と人間社会のシステムに対する自分自身の関わり方にあったと自己分析しています。後者は最近になってある映画を見て感じたのですが、人間は人間社会のルールや秩序を破ったり羽目をはずした時に、自分の生を実感でき、特に多感な時期に感じた生の実感と他人からの無条件の愛情を心の支えにすることで後に秩序に縛られても不条理な世の中でも生きていけるようになるのではないかと。私には両方とも得ることができませんでした。 私が一番無邪気だった小学生のころ。他人に感じていることを自然に話し、毎日のように野球を見て松井秀喜を見て感動し、松井のグッズを付け夢中になって野球をし、好きな女の子と自然に関わり心躍らせ、お笑い芸人の藤井隆さんのマネをフォーフォーと全快にやり、時には先生に怒られるようなこともしたころ・・・。一番充実した日々でした。 それから、数年後には、宗教宣教活動に影響があるとのプレッシャーから規律を乱す行為はしなくなり、思っていることも口に出さず、宣教活動に支障をきたすことや過度のスポーツは戦いに入るとの解釈から野球を断念させられ、異教徒や無宗教の友達との交友は制限され、異性との付き合いはさらに制限され、好きな女の子を思う気持ちが鬱屈した感情になり・・・。 宗教教義はもちろんですが、世間の道徳論にも親にも支配されていたのだと思います。 小学校高学年時代に野球の問題で母ともめた時、泣きつかれたこともあって宗教をやめたいと切り出せず、高校1年まで続けてしまいました。 この中学時代、自分の意思を伝え、秩序との格闘をある程度できていたなら、今いる自分はいなかったかもしれないと思い、後悔でいっぱいです。 高校に入ってその歯車を中学以前に戻したかったのですが、うまくいきませんでした。 どれだけはしゃいでクラスのムードメーカーになったとしても、その行動は虚像であり道化。周りからはうまくいっているように見える関係でも、自分自身の中ではうまく距離がとれないことで心の交友は男女ともにできず、無邪気なありのままの欲望を復活することはできませんでした。 高校時代は社会とのつながりをより考え、進路を計画したり、この時期までの欲望をどう社会の規律と歩調を合わせるかを模索する時期だと思うのですが、私には欲望が何一つありませんでした。 世の中には不条理や欺瞞や矛盾に溢れていると感じています。経済の市場原理主義、生命を維持するために必要な死、性欲、功利主義など。 現代社会ではあまり問題ではないことも気になってしまいます。 その中でも人々は生の実感や自分の無邪気な欲を大切にし、それを糧に生きているのだと勝手に思っているのですが、今の私は社会と関わる気力や免疫がありません。 どうしたらいいのかまったくわかりません。 何かアドバイスがあればよろしくお願いします。(22歳・男) うまく言葉を整理できず、下手な文章で読みにくかったと思いますが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
- みんなの回答 (15)
- 専門家の回答
みんなの回答
- youchan37
- ベストアンサー率37% (248/669)
>何度も回答、感謝します。 >完全に理解できてないので熟慮した上でお礼を書かせていただきます。 >遅くなったらすいません。 これを読んだ私の心境、苦悩を、何をもって説明すればいいのか悩んでおります。 これはつまり、キリスト教者たるトルストイが自らの著書(恐らくは「人生論」)にて、 「我が子が熱を出して寝ているところに、一夜の宿を求むる人が扉を叩いた。 この時一枚の毛布を子供に架けるべきかこの人に架けるべきか。この苦悩こそ…」 というようなことを述べていたが、それに匹敵するものだと思われ。 心中お察しいただきたい。 お礼が遅れました。まずは読んで頂いて本当に有難うございます。 誰一人まともに読んでくれずともかまわない。自身のためにだけでも掲げようという心境でした。 文中にて述べている通り、この先もし貴方からのお言葉に「?」があっても、 私には答える能力はありません。 或いはこの微々たる能力を振り絞ろうと試みても、もし貴方が私の書いたもののを読むにあたり 5時間かけて下さり、その上で「?」と問われたとしたら、 私ならさしずめ80時間以上かけなければ、それに対する答えを振り絞ることはできないでありましょう。 私は俗人です。私の体・私の時間は、私一人のものではない。 完全に私一人のものであるならば、大いなることに気づかせていただいた貴方のために、 80時間でも100時間でも時間を割きたい。しかしそれは限りなく難しい。 この「難しい」と吐いた私の心中の苦悩を、どうかお察しいただきたい。 貴方は前に「自己愛」について述べられていたが、 私に言わせれば、貴方は「自己愛」が何なのか、まるで分かっていない。まるで! しかし貴方にこれを直接的に、対立する様式で言葉で説明しようとすれば、 それだけでどれ程の時間が必要となるのか、想像もつかないほどです。 ハインツ・コフートやメラニー・クライン、宗教家ならハビエル・ガラルダの著書を読めと 言いたかったが、ただそういうだけでは私の気持ちが収まらない。 しかし収まらなくても、私の言葉でそれを貴方に分かってもらえるようにするには、 私には時間が無さ過ぎる。今貴方に導かれて思うのは、それは対立ではない。融合です。 究極的には、知的理解・言葉、そんなものではフランクルのいう自己充足は決して得られるものではない。 しかし私は、これは私の思い入れなのかも知れないが、 貴方が、先に私が推した著書を熟読いただければ、私のつたない言葉の延長を掴みとり、 私が申し述べたかったことをきっと理解して下さると信じたい。 しかしもしそれが結果的に「私の思い入れ」で終わったのであれば、 やはり既出のご回答にもあるように、中澤啓介牧師を是非訪ねていただきたい。 本当に神が貴方に望み課したことは何なのか、是非気づいていただきたい。 実に僅かである故、こう願うことはおこがましいが、どうか貴方に対する私の愛を感じて頂きたい。 否、「我々」の愛を感じて頂きたい。ただひたすらそれを神に願うばかりです。
- youchan37
- ベストアンサー率37% (248/669)
やーいよいよ、貴方の質問スレは素晴らしい世界になってきましたよ、私にとって。 誠に勝手ながら、自分のために追加を書かせていただいているようなものだ。 何のために「回答」という行為をするのか? それは自分自身の成長のためでもある、と。 ずーっと貴方のことを考えていた。私のことと貴方のことを比べてた。 …もし具体的な質問を貴方にされたら、どうしようか…。答えられないと思う、九分九厘。私にそんな能力はありません。 そこには、ビビッてる自分がいた。…ここなんです、私にとっては(苦笑)。 そう、昔の私なら、もし何か貴方に難しい質問をされたら、見栄を張って分かったようなウソをついて、無理矢理いい加減な答えを返していたと思う。…そして、そんなことを考えていたら閃いた! 今の私にとって「理想の自分・かくあるべき自分」と「ありのままの自分」は融合してるんだ。それが解決した姿だ。理想の自分・かくあるべき自分も残っている。だから暴走したり しつこかったりしてる。でもあっさりと自分の本当の力を認めることもできる。ありのままの自分を出すこともできる。この二つはどちらか一つが全く無くなったわけでもなく、例えば6:4のバランスが解決した姿だと固定されるべきものでもなく、絶えず変化流動しながら融合した姿を保ち続けている。これが解決した姿なんだ。もっと厳密にいえば、そういうことも含めた全てが、「ありのままの自分」なんだ。時間的に成長すれば又変わる。常に変化流動している。 私の「理想の自分・かくあるべき自分」と、貴方の「禁欲の自分」は同じものだ。 私の「ありのままの自分」と、貴方の「欲望の自分」は同じものだ。多分…。大いにそんな気がする。 だから貴方もこの二つを融合させるべきなのだ。私のように。それがきっと解決した姿だと思う。 でもそれは手順を踏まなきゃできないと思う。それは前に記した通りです。 こうなってくると、本当に私にとってこのスレは素晴らしいスレでした。モヤモヤしていた部分がスッキリ見えた気がする。 素晴らしいスレを本当にありがとうございました。
- youchan37
- ベストアンサー率37% (248/669)
まず前カキコで言ったことは、生きるではなくて、生きてみる、であると。親鸞なら「良き人の」です。試しに生きてみる。科学ということなら実験です。やってみないと分からない。生きてみないと分からない。先に答えを見つけて答えが出てからやろうでは永久にできません。食べず嫌いです。旨いか不味いか分かってから食べようとしても不可能です。人の意見を聞いたってそれは人の感覚によるもので、自分の感覚ではないから分かりません、自分は旨いと思うかも知れない、不味いと思うかも知れない。 しかしこれだけではない。一番大事なのは、A店のラーメンを食べるのかB店のカレーを食べるのかC店のチャーハンを食べるのかです。どの店の何を食べるのか、実はもう決まっているのです。だからまずそれを見出さないといけない。違う店のものを食べたって、即ち自分にふさわしくない生き方を選んで生きたところで、フランクルのいう自己充足は得られません。 それはまず気質として遺伝子として何を神に持たされたのか、です。総合失調症的なものなのか神経質(トランスポーター遺伝子のようなもの)なのか何なのか…。完全にフラットな人間はいない。身体的なことやら顔立ちやら何やら、実に様々な「不公平」を、神は我々に課したのです。それから恐らく何よりも重要なのは親との関係です。幼児期の親子関係は、子供にはどうしようもない。これも又運命です。…ここまでが運命・宿命です。ここからがスタートラインです。神は自分に何を運命・宿命として課したのか、それをまず知る。それを知ったなら、自ずとどの店の何を食べるべきなのかが定まってくるはずです。もっと言えば、或いは自分にふさわしい店はないかも知れない。それなら自分で作る。そして神が与えた自分の運命・宿命を果たす。そうすると偉大なる幸せが得られる。そしてそれができさえすれば、最後は必ず天国に行ける、と。 ちなみに私事ですが、私はキリスト教原理主義の教義うんぬんではなく、親に褒められずに育ちました、ただの一度も褒められずに。すると今でも褒めて貰いたいのです。愛情飢餓です。これは生涯消えることはない。だから「偉いねー、凄いねー」と褒めて貰いたいのです。今は大人ですから、だから今度は親ではなく回りの人にそれを要求している。例えばこうやってこの掲示板に張り付いて、しつこく未だこのようなことを書いている。何故なのか? お読みになって下さっている方に「凄いねー、偉いねー」と褒めて欲しいのです(自爆)。皆さんに親の代わりになることを要求しているのです。なんとなくそれがにじみ出てますよね はははは(汗)。実につまらないハナシに聞こえますが、私にとっては一大事です。これが私の運命なのです。宿命なのです。但し今自分ではそういう構造が分かっています。以前は褒めて貰えそうな自分と現実のありのままの自分との大きなギャップにより、ひたすら自分が嫌いでした。しかし今はそうでもない。オレは可哀想な人間だったんだと。そしたら自分で自分が少し愛せるようになりました。そして時々生涯消えることのないこの心の構造を暴走させ、このようなことをしています。天国に行けるかどうか分かりませんが、以前よりは少し近づいていると思う。そしてそれなりに、自己充足を感じることのできる日々を送らさせていただいております。自分が何者なのか? 自分は神から何を運命・宿命として課せられたのか、それがおぼろげながらでも分かる前と後では、まるで世界が違っていることだけは確かです。 最初からまとめていれば一発で済んだのですが、粗忽で洞察力の足りない性分です。ご迷惑をおかけ致しました。 それから「偉大なる幸せ」等の言葉は、加藤 諦三の「運命のうけいれ方」にあった言葉です。 この本と、それから「大人になりきれない人の心理」の二冊を強くお薦め致します。 これだけ論理性の高いご質問者の頭脳をもってすれば、完読されればきっと私以上に 何かを掴んでいただけるものと信じております。 尚「大人になりきれない人の心理」の方には、アップルホワイトについてかなりページを割いた見解が寄せられています。 少しでもご参考になれば幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
- youchan37
- ベストアンサー率37% (248/669)
なるほど。そちらの方向でしたか。素晴らしい回答ですね。 私からはたいしたことは言えないが、関わってしまいスッキリしないのでしつこいが又きました。 答えはないですよ。 答えを探してから生きようとしたって、元々答えがないのだからダメです。 先に生きることです。生きてみることです。 そしたら、どれほど生きたかに応じて、答えが生み出されてくる。 フランクルはよくそういうことを言ってたと思います。 ご質問者の素晴らしさを活かして、まず生きてみて下さい。 がんばって下さいよ。バカバカしいほど月並みなセリフですいません。 失礼致しました。
- heimatlose
- ベストアンサー率0% (0/2)
少し思うことがあるので、回答させていただきます。 自分についてのことが長くなるのですが、何かの参考に、と思いましたので、書かせてください。 yukikkusu55さんとまったく同じとは言えないでしょうが、私も「人はなぜ生きているのか」という問いに捕らわれていた時期がありました。 結局、どんなに考えても答えは見つからず、むしろ思考する際の論理や言葉さえ疑うようになり、「正しい」、「正しくない」と判断することもできなくなりました。それを決定する根拠さえどこにも見つからなかったのです。 そのような状態においては、私の実感として、「生きる理由」も「死ぬ理由」も等しく存在しませんでした。 生まれた人間の半分は自殺して然るべきなのに、多くの人がなぜ生を選ぶのか、私は理解できませんでした。 そんなことを考え続けながら日常生活を送ることは、正直、とてもとても困難な作業でした。 だから私はそのような問いを発する自分を押し殺して、考えを保留し続けました。 そして数年後、私は「幸福論」(ヒルティ著)を読み、 「どんなに思考を続けていっても、我々は“疑う余地のない、絶対の理由”に辿り着かないのだ」と考えるようになりました。 人生や、世界を説明しようとする以前に、我々は既に人生や、世界にのっかってしまっている存在なのです。 人生や世界に既に含まれている我々が、自分たちが発明した論理や言葉で、人生や、世界を説明しきることができるのでしょうか…? 私は思うのですが、このように人生を突き詰めていった結果に、 何か絶対的なものを設定(発明)し、それを絶対的に信じ、足場として用い、生きていこうとする人が、宗教の道に進むのだと思います。 そして、生涯をかけて上のような答えが出る見込みのない問いを続ける人が、哲学の道に進むのだと思います。 それ以外の人が、おそらく「普通の人」と呼ばれるのでしょう。「普通の人」が信じているのは、たしかに「無邪気な欲求」と表現できるかもしれません。が、それは必要なことだと思います。人間である前に我々は動物であり、その欲求に従うことで、我々は生き残ってきたからです(私の偏見かもしれませんが、「普通の人」が大多数なのは、「無邪気な欲求」に従った人の方が、宗教や哲学の血筋よりも子孫が繁栄するためだと思います)。 「普通の人」である私が、ごく最近了解し始めた言葉があります。 「人生は何か、と問うてはならない。我々は、人生から問われている」 という言葉です(V・E・フランクルの著書から影響を受けています)。 要するに、我々は人生から、「おまえはどう生きるのか」と問われていて、我々はそれに答えなければならないのだ、ということです。 (いま、私が信じているのは私自身の「感動」です。私を感動させ、私の体を動かす言葉を、私は信じています) 私は思うのですが、yukikkusu55さんはおそらく、「普通の人」とはちょっと違う人生を歩んでこられたのだと思います。 「普通の人」には感じられないものを感じる才能があるのだと思います。 だから、あなただからこそできることが、きっとあるのではないかと、私は思います。 正直、具体的なアドバイスなど何もできませんし、私の文章など参考にならないかもしれません。 しかし、必ず、自分はどう生きたいのか、あるいは、生きることをやめるのか、判断を下さねばならない時がやってきます。 その時に、あなたがどう答えるか。 私は、あなたがあなたの人生で勝ち得た、全てのものをかけて、その決断をしてほしい、と願っています。 長文になり、申し訳ないです。 (完全にマネになりますが)最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
No.7です。 自分は経験ありませんが、僕の彼女(カトリック)はJW2世を 組織から救い出した(排斥させた?)経験があります。 2世も普通の社会生活を送れるようになるまでリハビリが大変でした。 自力では限界があるので相談なさると良いと思います。 組織に居た人の思考回路やリハビリに深い理解を示してくださるようです。 中沢牧師の連絡先はネットで検索できます。
お礼
再度の回答に感謝します。 宙に浮いた宗教が、カルトだと論争していることに疑問もあり、宗教関係者とのことで抵抗はありますが・・・。 社会生活を送れるようになったとのことなので、調べてみようと思います。 ありがとうございました。
- youchan37
- ベストアンサー率37% (248/669)
私はただの自己愛性人格者です。かなり抜け出してきましたので、それが過去の経験です。一番状態の悪い時は、屁理屈ばかり言って逃げていました。屁理屈に酔い、自分はウルトラマンのように凄いと思っていました。それで、そういう仮面を自身で見破ることで、解決をしました。今はその時の自分は、屁理屈ばかり言って逃げていただけだ、と分かります。だから経験者ですが(笑)。貴方の問題の一番核心の部分は、確かに私と同じではないですね、よく読まなかったので失礼致しました。しかしまぁその一部は同じだと思われます。なのでお許し下さい。 >私は根っからの禁欲主義者になってしまったらしく 根っからの禁欲主義者にしては随分とおしゃべりではありませんか。ご自分で根っからの禁欲主義者だと思い込んでいるだけでしょう、私には全然そうは見えません。 まぁこんな細かいことは宜しい。 >人間は人間社会のルールや秩序を破ったり羽目をはずした時に、自分の生を実感でき、特に多感な時期に感じた生の実感と他人からの無条件の愛情を心の支えにすることで後に秩序に縛られても不条理な世の中でも生きていけるようになるのではないかと。 多感な時期に感じた生の実感と他人からの無条件の愛情を心の支えにすることができれば、後に秩序に縛られても不条理な世の中でも生きていけるのである、と。そうやって生きることができたのなら、それは自分の生を実感できているということですよね。何も人間社会のルールや秩序を破ったり羽目をはずしたりせずとも、自分の生を実感できるのですよね。なのに人間社会のルールや秩序を破ったり羽目をはずしたりしなければ、自分は生を実感できないとなれば、これは矛盾してませんか。 人間は人間社会のルールや秩序を破ったり羽目をはずした時に、自分の生を実感でき、 →秩序を破ると自分の生を実感できる。→自分の生を実感するためには秩序を破る。→秩序を破らなければ自分の生を実感できない。 特に多感な時期に感じた生の実感と他人からの無条件の愛情を心の支えにすることで後に秩序に縛られても不条理な世の中でも生きていけるようになるのではないかと。 →多感な時期に生の実感を得れば、秩序に縛られても生きていける。 秩序を破れば、自分の生を実感できる。 生を実感するためには、秩序を破ることだ。 生を実感すれば、秩序に縛られても生きていける。 秩序に縛られても、生を実感できる。 生を実感するためには、秩序を破る。そうやって生を実感すれば、秩序に縛られても生きていける。 秩序を破って生を実感すれば、秩序に縛られても生きていける。 秩序を破ることで生を実感できたのに、秩序に縛られても生きていけるのか? 何かが矛盾してますよ。何でしょう? アタマ痛くなってきました(笑)。 完全に理屈で矛盾はしていないが、やはり矛盾してる。 この矛盾を解くためには、失礼ながら然るべき場所で心のケアをされるしかないと私は感じます。 ただぐるぐると循環し続けているだけです。キリがないのでもう失礼致します。あしからず。
お礼
再度の回答に感謝します。 私も根本は自己愛だと思います。 幼児期なんてものは自分にいいことしかしません。 他人のために何かをするといっても自己愛の投影でしかなく、矛盾した要素は何もない。 その時期に無条件の愛を受けることにより、自己愛の延長で他人との関係をつかむことができ、青年紀に自己愛と現実との矛盾を秩序への抵抗や服従を繰り返すことで、社会との関係をつかみ、矛盾になれていく・・・。そんな感じでとらえています。 >>根っからの禁欲主義者にしては随分とおしゃべりではありませんか。 しゃべることは教義や社会道徳に全く関係ないので、違和感は感じていません。 思っていないことをしゃべることには違和感を感じますが、その点では私の中では今回は問題ありません。 う~んと、秩序に反抗する行為ってのは・・・笑いとか、バイオレンス的なものとか、セクシャル的なものとか、猟奇的なものとか、そんな感じのものです。 そういうものって社会では一般通念上禁止になっているが、人間の欲望には少なからずある部分だと思うのです。 太田光さんやさんまさん紳助さんのような社会規範を突き破るような笑い、人間の暴力的な部分をカタルシスしたり時には増幅させるバイオレンス的なもの、同じくAVや風俗的なもの、など・・・。 多くの人はそこの社会秩序と欲望を出たり入ったりしてうまく操縦しているように感じるのですが、教義や道徳に依存しすぎると多分うっくつした人間になってしまう・・・。 その根底にあるのが、あなたがどのような存在であろうとも受け止めてくれる愛情だと思っているのですが。 >>何も人間社会のルールや秩序を破ったり羽目をはずしたりせずとも、自分の生を実感できるのですよね。 根底に無条件の愛情があり、その上に欲望とルールとの葛藤があるということです。 >>秩序を破ることで生を実感できたのに、秩序に縛られても生きていけるのか? 縛られても、その枠内から出たり入ったり、コントロールができるからです。無条件の愛が根底にありますから。 何か矛盾点があればお願いします。
- niki21
- ベストアンサー率25% (1/4)
宗教って、人生を豊かなものにするものであってほしいのですが、 私には偏った考えと思えてなりません。戦争が起こってしまったり・・・ まったく関係ないかも知れませんが・・・ もし海が嫌いでなければ、 潜ってみるのもいいと思います。 (スキューバー) 広く深い海の中にいると別世界です。 海の中のにも山あり、谷あり、 泳いでいるというより、 飛んでいる感じです。 自分がすごくちっぽけに感じて、 でも、生かされてるんだなって思いました。 なんか全然的外れでごめんなさい。。。
お礼
回答ありがとうございます。 >>宗教って、人生を豊かなものにするものであってほしいのですが、 私には偏った考えと思えてなりません。戦争が起こってしまったり・・・ わたしもそう思います。宗教は、抑鬱した上でのカタルシスであると思います。 抑鬱していない、子ども時代から教義を教えられる怖さを自分の身体で実感しています。イスラム原理主義の子どもたちも同じように感じているのではないかと、悲しくなります。 スキューバですね。考えてみます。 ありがとうございました。
文脈から察して、もしJWの方でしたら中澤啓介牧師のところに 相談されたら良いのでは?見当違いでしたらすみません。
お礼
ビンゴです。 _daisuki_さんは経験者さんでしょうか??
- cocoro6_6v
- ベストアンサー率31% (192/612)
皆大人になる過程で経験することです。大人になって無邪気にありのままでいられる人は、別の問題がありそうです。 理由が無ければ生きていることはできませんか? あなたがなぜ生きているのか、そんなものに答えは無いですよ。 あなたがなぜ死なないでいるのか、という答えも無いのです。 あえていうならば、人類の命をリレーするためでしょう。 でも、それはあなたでなくてもいい。誰かが子孫を残せば人類は残ります。野生動物や魚が生まれて天敵に食べられずに親になる確率はどのくらいでしょうね。人間は天敵はいませんから、あまり命のリレーを意識することはないですね。(逆に人口が増えすぎて問題も起こっています) だとするならば、「なんのために」と考える必要はなく、あなたの人生なのだから、好きなように生きればいいのです。 みんないつかは死にます。苦しいかもしれないし、眠るように死ねるかもしれない。そんなことはその時にならなければわからないのです。だから、死のことは死ぬときに考えればよい。考えるのをやめることです。 生きていることは辛いことが多いのです。どうしたら、辛さを乗りこえて生き続けることができるのでしょう。社会と関わる元気が出るまで、いろいろな宗教を学んでみるのもいいかもしれませんよ。
お礼
回答ありがとうございます。 >>皆大人になる過程で経験することです。 そういわれると少し救われます。 >>大人になって無邪気にありのままでいられる人は、別の問題がありそうです。 大人になったらそうでしょうが、子ども時代に他人との濃密な関係(愛情も憎悪も含め)が秩序への依存でできず、親からは教義込みの限定的な愛情しかえられず、反抗したらポイって感じですから・・・。 結構、色んな人の本や考えを聞くと、濃密なものや無条件の愛情が死ぬことよりも生きることがベターだととらえれるベースになってるのではないかな~と思っているのですが・・・。 この親から依存しないと禁欲と客観視との葛藤から抜けれないのかなと思うようになってきました。 >>理由が無ければ生きていることはできませんか? >>あなたがなぜ生きているのか、そんなものに答えは無いですよ。 >>あなたがなぜ死なないでいるのか、という答えも無いのです。 死ぬことが楽とかじゃなくて、死ぬことの方が生きることよりベターじゃないかと思ってしまう自分がちょっと怖いんですよ。 生きることの論理的な意味はないと思ってます。 でも、大抵の人は生きることがベターだと思っていると思うんです。それが何故なのかを考えてきたのですが、やっぱり無条件の愛と濃密な関係がそのエネルギー源だと思うのですが・・・。 cocoro6_6vさんの生命のリレー感に私も同意します。遺伝子を考えるとそういう結論になりますよね。 色々考えさせられました。ありがとうございました。
- 1
- 2
お礼
何度も回答、感謝します。 完全に理解できてないので熟慮した上でお礼を書かせていただきます。 遅くなったらすいません。