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孔子が目の前の一頭の馬を助ける話の出典を教えてください。

加藤周一さんが、TBSの追悼番組の中で、孔子が酷使されていた目の前の一頭の馬(牛?)を助けたとき、周囲の人から、この国には多くの馬がいるのに、何故あの一頭を助けるのですかと聞かれて、孔子がそれは、ただ私の目の前にいるからだ、と答えたという話を紹介していました。全体としての合理性を云々する前に、目の前の不幸に対して行動せずにはおれないという気持ちが表現されているのだと思い、いい話だなあと思ったのですが、この孔子の話の出典は何でしょうか?教えていただければ幸いです。

みんなの回答

  • kzsIV
  • ベストアンサー率53% (238/446)
回答No.3

参考 漢籍に詳しい方からの回答を待った方がいいのかも知れません。 孟子、梁恵王章句上の、斉の宣王との問答に類話があります。 王「私でも民を安んずる事ができるでしょうか?」 孟「おできになります」 王「なぜ、そのように?」 孟「王には目の前を牽かれて行く牛をご覧になって、『どこにつれて行くのか』と尋ねられ、『生贄にいたします』との返事に『それは中止せよ、罪もないのに死地に就くのは見るに忍びない』と言われ、『それでは生贄はいかがいたしましょう』との奏上に対し『仕方がない。かわりに羊を使え』とおっしゃったそうですね?」 王「その通りです。」 孟「その心こそ王者にふさわしいものです。実は、このことで庶民は『王様はケチンボだ』といってます。」 王「そうですか。わが国がいかに小国だからといって、私は牛一頭を惜しんだりはしません。」 孟「大きい牛の代りに小さい羊を使ったのでそのように考えたのです。もし『死地に就くのは見るに忍びない』と思われたのなら、牛でも羊でも同じではありませんか?」 王「これはどういうことなのでしょう?。牛が惜しいわけでもないのに、羊に替えたのですから、皆が私のことをケチと言うのももっともなことです。」 孟「お気になさることはありません。それこそが「仁」の心の致す所なのです。牛は目の前にご覧になっていても、羊はご覧になっていないからです。君子は、生きている鳥けだものを見ると、それらが死ぬのを見るに忍びなくなるのです。その声を聞いてしまうと、その肉を口にするのに耐えられなくなるのです。ですから君子は台所には近づかないのです。」

1078_2009
質問者

お礼

ありがとうございました。加藤周一さんが紹介された孔子の話と類似していて、面白いですね。

回答No.2

 回答番号:No.1さんの二番目の話ならみなさんも私もよく効いておりました。  このことしか実は知りませんでした。

1078_2009
質問者

お礼

ありがとうございました。私も素人ながら、「論語」に一通り目を通してみたのですが、加藤周一さんが紹介された話は見つけられませんでした。

回答No.1

   孔子の牛馬 ~ 牛を助け、馬を問わず ~   ── 一頭だけ助けるのは不公平だという弟子に対して、目の前を歩い ているからだと、その牛を生かした。── 加藤 周一「孔子の話」 http://d.hatena.ne.jp/hanahanamegane/20090317#1237235097 ── 《ETV特集 歴史としての20世紀を語る 20000327-0330 NHK教育》    番組は上記の通りですが、下記の故事では異なった解釈ですね。   ── 孔子が留守の時、厩から火事が出て愛していた白馬が焼死してし まった。家来一同避難して無事であったが、そのことを孔子に伝えると、 『皆は無事か』と訪ねそのほかの事は何一つとがめなかった。この時か ら家来はこの君主には命を捧げても尽くそうと思うようになった。 http://ginjo.fc2web.com/90umayakaji/umayakaji.htm  落語「厩火事」の舞台を歩く   ── 厩(うまや)焚(や)けたり。子、朝より退きて曰く、人を傷 (そこな)えりや。馬を問わず。── 孔子《論語》 http://d.hatena.ne.jp/originalk/20081228   ── 談話における「話の逸脱」と「修正」: 落語『厩火事』を例に http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/2759  小出 美河子(早稲田大学日本語研究教育センター紀要)  

1078_2009
質問者

お礼

詳細な情報をありがとうございました。矛盾するような話にもその各々に真理を含んでいるということなのでしょうか?

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