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「芸術」について
最近、芸術とは何か?という素朴な疑問を抱いたのですが、 ネットで調べたところによると、 ある活動や作品が芸術であるか否かについて、必ずしも誰もが同意する基準があるとは限らない。 表現者側では、その働きかけに自分の創造性が発揮されること、鑑賞 者側ではその働きかけに 何らかの作用を受けることなどが芸術が成り立つ要件とされる。 また鑑賞者側が、その表現が前提としている様式の暗号を知ら ないと働きかけはうまくいかないことがある。 とありました、これが正しいかは別として、個人的にはなかなか 納得できるものでした。 確かに巨匠とよばれる画家の絵画作品はメッセージや謎が隠されて いるものが多い気がします。 でもメッセージのやり取りのみが芸術性な訳ではないというのも 確かだと思うんです、だったらみんなメッセージを込めた絵を描 けばいいことになってしまうので、、どういう表現でメッセージ を込めるか、そういう技術が総合的な技能で、そのメッセージが 理解できたとき芸術作品に昇華するという理解に至りました、 もちろん、例外はあると思いますが,, そこでみなさんにも芸術とはどんなものか意見をお聞かせ下さい、 感動した作品なんかでも結構です。 長文になりましたが、 考える価値のある議題だと思います、ぜひよろしくお願いします。
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一般的には、自己表現が芸術と思われています。しかし日本の、伝統文化は、自己表現で無くて、癒しを表現する事が、目的で。例えば、能の場合、座禅のように無我意識、癒しを表現しています。だから演技者の、脳波を調べると、座禅と同じで、前頭葉が休んでいます。水墨画では、何も書かない余白が主役で、画像は脇役です。つまり無我意識、癒しを表現しています。浮世絵も、癒しを表現するための構図が、西洋印象派は、印象と思っていました。だから浮世絵の画集を買って、疲れた時見ると癒されます。伝統音楽も、平安の雅楽を頂点として、癒しのオンパレードです。平曲、人形浄瑠璃、義太夫節、などから演歌まで、癒しの実証は、雅楽を海で演奏したら、魚が集まったそうです。日本人が癒しを追求する原因は、世界中で日本語だけが、母音を強く発音するからです。母音が無我意識で癒しです。
芸術か何か、とそれが優れたものであるかどうかは分けた方が良いと思うのです。というのはそうしないと優れたものだけが芸術である、芸術は優れていないといけない、と思い込んでしまう弊害があるので。 美醜であるとか創造性と言われるものがある場合もあるしそういうものの希薄なものもあるし、そういうのも含めて全て芸術と考えないとかえってその中での優劣は論じにくくなると思うのです。 そのように考えるなら芸術とは、精神生活に属する技術・創造物、という事になるかと思います。 例えば料理を考えると栄養は芸術ではありませんが味がどうあるべきかとか伝統として体裁がどうあるべきかというのは芸術の分野に入るかもしれないと。 それが芸術であるという了解がないと意味を成さない作品はいろいろあるというか、芸術にはそういう面があると思います。 だから「レディメイド」のように芸術と思って作ったものではないものを芸術のしきたりで観賞してみたらどうなるのかという実験が芸術行為として成り立つのではないかと。 書いていらっしゃる「暗号」とは隠されているメッセージ(意味)と読むよりは芸術の世界での約束事と読んだ方がすっきりしないでしょうか。
私は価値感を内包しているものが芸術だと思います。 良いことだけに留まらず、極端な例ですが作品に触れたときに気持ちわるいと思ってもそれは芸術なのだと思います。今使っているキーボードにも価値を見出せればそれは芸術になるはずです。 なので、存在していればそれは既に芸術と言えなくもないのではないでしょうか。 人がどう思うのか、どんな認識なのかというものを芸術という土台にひっぱり上げて来たものが作品だと思うんです。
- nikilauda
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大変難しいテーマですね。 様々な要素があるのではないかと思います。 作者の想いが込められたメッセージというのも非常に感性を必要とされるのでしょうね。 その意味ではこれも一つの才能なのでしょう。 私のような凡人がいくら想いを込めた作品を制作しようとしても多分その思いは作品には伝わらないでしょうし、ましてや鑑賞者には全く伝わらないかもしれません。 想い自体が浅はかなのかも知れませんし、想いを作品として表現する以前にその想い自体が作者の才能でもあるのかも知れません。作者により想いを伝える上手さという才能もあるのでしょう。 もちろんそれを受け止める鑑賞者の感性も重要なのだと思います。 それと単純に技術的なレベルでの感動も当然あると思います。 絵画でも才能のない人間から見るととても描けない様な巧みな技術レベルを確認すると人は普通に感動を覚えるのではないでしょうか。 このことは絵画や陶芸などのいわゆる芸術と呼ばれる世界だけでなく、体操のオリンピック選手の見事な技や機械並みの精巧さで物を造る町工場のベテラン職人などの技術を見ても感動する場面ですし、技術のみを主体としたものもひとつの芸術なのではないでしょうか。 このことも見ている人の感性や技術レベルの違いで人それぞれ違って見えるでしょうね。 ただやはり芸術家というのは私達には無い感性が備わっているのだと思います。 これは才能ではありますが才能と表現するよりも人とは違う感性と表現した方が良いような気がします。 人それぞれ芸術的な感性の才能・運動の才能・数学的な才能・人を思いやる才能など様々な感性を持ち合わせている訳で、芸術家には言葉で説明できない芸術の感性の才能が備わっているのでしょう。 ですから、何かひとつの感性に対してはそのような感性を持ち合わせていない人の数の方が圧倒的に多い訳ですし、芸術家にしろ死後評価された人やあるいは一時期批判されたような事も起きるのは当然といえるでしょう。 そのことに関しては単純に数の論理の問題なのだと思います。 金額的な評価などはその時代により流行もあるでしょうし、マスコミを始めとした媒体からの情報に多くの人が影響されるという事実があります。 そこには芸銃的な要素からかなりかけ離れた状態になる時もとうぜんあるでしょう。 人は情報や数に流されますし、極端な話人を扇動することなどわけないことです。 絵画をみていてもシロウトでも描けるのではないかという、一見とても簡素に描かれている作品でも物凄く魅力を感じる作品もありますよね。 その作品を見て変な詮索抜きでいかに多くの人が純粋に感動できたかというのもひとつの指標ではあるのでしょうが、多くの人が見た場合、気付かずに流行に左右されているのかもしれませんし、ビックネームに何時の間にか有り難がって見ていて本来の感情以上に感動している可能性もあるかも知れません。 何かの才能というのは一部の人が持っているものですし、他人がそれを正確に評価するのは絶対に無理な話ですし永遠に解けないテーマなのでしょうね。
お礼
そうですね、ハッキリとした基準があった方がむしろ 芸術は発展しないと思いました。解けないテーマを 追及するからこそ、そこにおもしろさがあるんですね!