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桂小五郎の思想の特徴について

桂小五郎の思想について勉強している者です。 長州藩内での桂とライバル関係にあった長井雅楽の提唱する航海遠略説と,桂の支持する吉田松陰の提唱する航海雄略説の基本的な考え方とそれらの相違点が整理できずに困っています。また,小五郎の政治思想については維新三傑や他の偉人と比べてほとんど述べられていないように感じました。小五郎の思想についてもご存知の方がおられましたら教えていただけると助かります。どうぞよろしくお願いいたします。

みんなの回答

回答No.3

こんにちは。 質問にお答えします。 >>航海遠略策の方についてなのですが,「朝廷の権威を保つために幕府と公武一体をはかり,攘夷という実現性のない原則を掲げて権威を落とすのではなく,開国論に乗り換えてはどうですか。急いで開国して国力を貯えたのちに,幕府に武威を海外に振るうように命令すれば幕府もすぐに言うことを聞くだろう。」という趣旨で合ってますでしょうか? 長井雅楽が提唱した「航海遠略策」は、簡単に言うと、 朝廷には、 「幕府が勅許を得ないまま、諸外国と条約を結んでいる。だから、公武合体をして、少しでも、朝廷が優位に立てば、幕府も勅許無き開国を遅らせることができるであろう」 と、公武合体を「前面」に出して唱えています。 しかし、一方の幕府側への力説では、 「公武合体をすれば、朝廷もいずれは、開国を認めるであろう」 と、極端に言えば、公武合体を唱えつつも、「朝廷もいずれは、開国を認めるであろう」と、全く「正反対」の論説を展開しています。 まあ、長井の唱え方は、「日和見(ひよりみ)主義」で、朝廷にも幕府にも「都合の良い点」だけを強調しています。 >>長井の開国論は既成事実(不平等条約の締結)を認め,攘夷を断念させたるものだから幕府に都合がよく 「攘夷を断念させる」と、まではいきませんが、 「いずれは、朝廷も開国に柔和な姿勢をとるであろうから・・・」 と、論じているようですね。 >>松陰は開国論でも既成事実を認めずにできるかどうかわからない大攘夷?のような開国後の攘夷を目指している点で異なると解釈してよろしいでしょうか。 松陰が、既成事実を認めることについては、すでに締結してしまった条約までもを「破棄せよ」とは言ってはいませんので、これまでの事は、一応は、「しょうがない」と、あきらめて、次のステップに踏み出したのでしょう。 やがて、その後の松陰は、「神格化主義(天皇崇拝主義)」一辺倒に走り、「勅許を得ない条約調印」に対して、激しい(過激な)行動をとろうとしていますよね。 討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。・・・などです。 そして、行き着くところが、「天皇をもって諸外国をも従わせる」と、言うような、>>開国後の攘夷を目指している<<と言うよりも、開国をしても「諸外国にも日本(天皇)に従わせる」と、言った方が良いかもしれませんね。 なお、言い忘れてしまいましたが、前回の文面で、 >>航海雄略説 「四夷を懾服(しいをしょうふく)」する「雄略」を「皇国の皇国たる所以」とみなしていた。 つまり、四方(しほう=どちらを向いても)が夷(おだやか)であり、懾服(恐れおののく)。 という朱子学の考え方から来ており、 「神勅」が日本に永遠の独立を保証する神聖な約束である。 と、本居宣長の「直昆霊」を読み、 そこから、(※)彼は「神勅=天皇崇拝」を単なるイディオロギーとしてではなく、全ての者が信ずるべきものと考え、その結果、「尊皇攘夷」を唱えるようになった。 の文面で、「彼」とは、吉田松陰のことです。 お詫びして訂正いたします。

umeko-n
質問者

お礼

なるほど,長井はそういう点では明らかに松陰とは異なるのですね。 とても詳しく解説してくださり大変参考になりました。ありがとうございました。私もこれから幕末をもっと勉強していこうと思います。

回答No.2

追伸: 「航海遠略説」は、>>幕末 長州藩の思想について<<をお読みください。

回答No.1

こんにちは。 >>幕末 長州藩の思想について と同じ質問の方ですね。 >>航海雄略説 「四夷を懾服(しいをしょうふく)」する「雄略」を「皇国の皇国たる所以」とみなしていた。 つまり、四方(しほう=どちらを向いても)が夷(おだやか)であり、懾服(恐れおののく)。 という朱子学の考え方から来ており、 「神勅」が日本に永遠の独立を保証する神聖な約束である。 と、本居宣長の「直昆霊」を読み、 そこから、彼は「神勅=天皇崇拝」を単なるイディオロギーとしてではなく、全ての者が信ずるべきものと考え、その結果、「尊皇攘夷」を唱えるようになった。 そして、「全ての者が信ずる」が故に、その考え方を日本のみだけではなく、世界万国相互に認め合い、世界における普遍性(「五大州公共の道」と呼ばれている)が最も良いものだ、と言う考え方へと発展していっている。 嘉永6年(1853)、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と共に黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれた。そのため安政元年(1854)には浦賀に再来航していたペリーの艦隊に対してアメリカ密航を望んだ。 しかし密航を拒絶されて送還されたため、奉行所に自首し、伝馬町の牢屋に送られた。 この密航事件に連座して師匠の佐久間象山も入牢されている。幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の阿部正弘が反対したため、助命されて長州の野山獄に送られた。 安政2年(1855)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の身分に処された。 安政4年(1857)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は長州藩の下級武士である久坂玄瑞や伊藤博文などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。 また、その一方では、 安政5年(1858)、幕府が「無勅許」で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺を自供し、再び、野山獄に送られた。 つまり、吉田松陰は「攘夷開国派」だったのです。 桂については、 「木戸孝允さんは、あれは松下村塾の門人ではないんだ。世間はまちがっている」 と、明治後、松陰の門人の品川弥二郎が萩のひとに語ったそうだが、確かに桂小五郎は弟子ではない。 吉田松陰が萩城外の松本村で松下村塾をひらいた安政2年(1855)には、桂はすでに江戸にあり、剣客斎藤弥九郎道場の塾頭をつとめ、剣客としても志士的活動家としても、書生仲間での名士としてとおっていた。 桂は12歳のときから藩校明倫館にかよってとくに漢学の講義をうけていたが、そのうち松陰が嘉永2年(1849)にその明倫館の山鹿流兵学教授になって講義をはじめたため、桂は兵学を学ぶためにそのゼミナールをうける手続きをとった。 師弟といえばそういう形式のものであり、要するに官学教授吉田寅次郎の学生であったにすぎず、私塾における松陰の思想の弟子ではなかった。 「しかし木戸さんは篤実な人で、松陰先生に対し、門人の礼をとっていました。しかし実際には世話になったのは松陰先生のほうでしたろう」 と、品川弥二郎は言っている。それが証拠?に、のち松陰は江戸へ出てゆくと、桂を斎藤道場にたずねて、いろいろ頼みごとなどをしている。松陰の方がはるかに子供っぽかったし、逆に桂は世故に長けているうえに、人の世話をすることも好きであった。 松陰は、長崎で西洋兵学を学び、それを教えていた。 桂は、「攘夷派」ではあったが、次第に、時節の流れを見据えるようになると、「攘夷開国派」へと考え方を変化させていった。 そういう意味では、松陰の提唱する「航海雄略説」を支持する部分もあった。 しかし、松陰の「神格化主義(天皇崇拝主義)」「国際的視野」とは違い、 桂は、まずは、 「日本はどうあるべきか。これからは、どうすべきか」 という、現実主義であった。 やがて、桂は長州藩の外交担当者・指導者・藩庁政務座の最高責任者として活躍するようになっていった。 ちなみに、松陰の「神格化主義(天皇崇拝主義)」は、「富国強兵」へと発展し「日露戦争」、そして、第二次世界大戦で採用した「軍国主義」「列強植民地主義」のイディオロギーとなった。

umeko-n
質問者

お礼

ありがとうございます。とてもわかりやすく感動しました。 航海遠略策の方についてなのですが,「朝廷の権威を保つために幕府と公武一体をはかり,攘夷という実現性のない原則を掲げて権威を落とすのではなく,開国論に乗り換えてはどうですか。急いで開国して国力を貯えたのちに,幕府に武威を海外に振るうように命令すれば幕府もすぐに言うことを聞くだろう。」という趣旨で合ってますでしょうか?長井の開国論は既成事実(不平等条約の締結)を認め,攘夷を断念させたるものだから幕府に都合がよく,松陰は開国論でも既成事実を認めずにできるかどうかわからない大攘夷?のような開国後の攘夷を目指している点で異なると解釈してよろしいでしょうか。素人なので的を得ないことを言っていたらすいません。是非ご指摘・ご指導お願いいたします。