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源氏物語を読んでいて…
源氏物語を読んでいて、官職のことが気になりました。 国の政治を司る最高官庁たる太政官。 それを牛耳るトップが、太政大臣・左大臣・右大臣・(内大臣)・大納言・中納言・参議らで、彼らがもっとも帝に近い場所にあり(蔵人とかは無視して)、彼らによって宮廷政治が動かされている…というようなイメージを持っています。 さまざまな物語を読んでいる限りでは、平安貴族は後宮政治と祭祀以外にいったいどんな政治を行ってたのか…という気もしないではないのですが、それはこの際どうでもよいです。 その、今でいうところの内閣の一員(ですよね?)である参議に源氏は19歳で、夕霧に至っては、18歳で中納言になっているようなのです。 当時は、12~16歳で元服を行って(源氏は12歳)、40で老人と言われるわけですから、今とは当然感覚が違うとは思います。 それにしても、現代の会社感覚なら、30前後の人に専務とか言っちゃってる感じ(ベンチャーならいざしらず)ではないのでしょうか。 当然、源氏物語はフィクションですから、大げさに書いてるという可能性もありますよね。 実際のところ、当時はこういう人事があたりまえだったのでしょうか。 よろしくお願いします。
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>当然、源氏物語はフィクションですから、大げさに書いてるという可能性もありますよね。 大げさに書いているのではなく、実状がそうだったのです。 平安時代の貴族は、上級、中級、下級というような三段階ぐらいに分けて考えると理解しやすくなります。大臣とか大納言、中納言、宰相(参議)、近衛大将、中将などになるのは、上級貴族です。 中級から下級貴族だと、正五位、または従五位まで昇ると、これが出世の頂点です。地方政治を考えると、中央から地方へは、国司が派遣されるのですが、国司は、大体従五位から六位ぐらいのあいだです。 国司には中級貴族がなりました。彼らは受領階級とも言われますが、実務能力に長けた人物が多く、そんな若年で国司にはなれません。地方政治は、中央から派遣される、国務の長としての「守」や「介」などが指揮し、実際の実務は、地方に居住する地元の官吏が行いました。 国司は一定期間で、任地から離れ、また別の国へと任地が変わる訳ですが、それでもうまく仕事ができたのは、地元の役人組織がしっかりとできあがっていたからです。 翻って、中央政府で考えると、同じようなことが、もっと極端な形であります。中央政府の中級・下級貴族は、それなりの役職につき、仕事をしている訳で、これらの中・下級貴族は、実力主義だとも言えます。 中納言以上の位にある人々がぼんくらであっても、中・下級貴族の実務役人が指揮している限り、中央の政治も、問題なく進行したということです。 『源氏物語』を初めとして、平安の女流文学者の作品である物語や、その他の話は、多く、最上流貴族が主人公となる話が多く、これは作者である女房などが、最上流貴族に仕える女房で、読み手が、最上流貴族または、最上流貴族にあこがれる、中・下級貴族の子女だったということがあります。 従って、最上流貴族の生活や日常などが記されるのですが、実務を担当していた中・下級貴族や、その下の下人・下女などの実務作業の話などは出てこないのです。 聖武天皇の頃や、奈良時代などだと、例えば、「中納言」という官位は、相当に実力のある人がなったものですし、政治の右も左も知らない若造がなったものではありません。平安時代初期でも、藤原氏と他の名家が勢力を競っていた頃は、それなりの有能な人物が高位の官職に就かないと、他の家に負けてしまうという事態が起こります。 しかし、菅原道真を失脚させた後では、もはや、一般臣下貴族で、大臣級の高位に昇る者は誰もいなくなり、更に、安和の変で、実力を持つ源氏の左大臣を失脚させた後では、源氏出身の実力ある大臣も出なくなります。 つまり、政治の実権を藤原一族で独占してしまったことになります。 また藤原道長が権力闘争に勝利するまでは、藤原一族内部で、権力闘争をしていましたが、道長の勝利の後は、藤原の諸家系について、その「分」というものが決まります。最上位を「摂関家」、次を「清華家」、という風に、貴族の家柄の格が四段階に分けられ、どの段階に属すれば、元服すれば、官位はどうなるか、最終的にどこまで昇進できるのかが、決まってしまいました。 『源氏物語』の書かれた時代には、まだ明確に摂関家などはありませんが、それが実質的に形成されつつあったた時代です。紫式部が『源氏物語』を書いた時代では、もはや、源氏の大臣が藤原の大臣を追い抜いて、最高権力者になるというようなことは、現実的ではなくなっていたのです。 しかし、上流貴族の子弟が、エスカレーション式に出世の道を約束されていたというのは、すでに既成事実です。その場合、藤原氏の上級官僚は、互いに、兄弟とか、従兄弟とか、叔父甥とか、天皇や親王も、藤原の最上流貴族からすると、従兄弟であるとか、甥であるというような関係で、全員が馬鹿では困りますが、有能な人物が幾らかいれば、他は、伝統に従って、形式的に命令を出していれば、中・下級貴族の実力ある実務官僚が政治の実際を執り行ったということになります。 上位の官職は、みな藤原氏独占で、穴が開くのはまずいので、元服と同時に侍従、従五位とか、で、すぐに正五位、四位という風に位が上がって行きます。当時は、若死にする者が多かったのですし、上位官職を占有してしまえば、他の家のものが、上に昇って来るということが困難になるということです。 >実際のところ、当時はこういう人事があたりまえだったのでしょうか。 最上級貴族である藤原氏のなかの名流の子弟については、そうだったのです。しかし、中・下級貴族の実務官僚は、先に述べたように、五位に昇れば、出世の極まりというような感じで、もっと遙かに下の方から出発しますし(七位とか八位あたり。六位ともなれば、すでに高位です)、実力がないと上には上れません。
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- shoyosi
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当時は「蔭位(おんい)」といって、五位以上の貴族の子や孫は始めて官職が言い渡される立位の時点で下駄をはかされていました。たとえば一位の父の嫡子は21歳で従五位下になるという具合です。これは一般の貴族の場合ですが天皇の子供の源氏(源という姓をもらったひと)はほぼ四位から出発しています。 参考 http://www.kaze-oto.com/kizoku-02.html http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/hashimoto-yoshihiko-murakaminogenji.htm
お礼
>当時は「蔭位(おんい)」といって、五位以上の貴族の子や孫は始めて官職が言い渡される立位の時点で下駄をはかされていました。 慣習的なものかな…と思っていたのですが、制度として確立していたとは!! はじめて知りました。 これを知ると、夕霧が元服の時に六位しか与えられずに恥ずかしい思いをした…という記述も、なるほどと頷けます。 源氏ほどの人物の嫡子であれば当然、本人も周囲も高い位に期待したことでしょうから、「大学寮に入れてしっかりした考えを学ばせたい」というはっきりした目的があったとしても、源氏の行いはどちらかというと奇異の目で見られたことでしょうね。 現代社会では、あまり階級というものを感じることがないので、分かった気になって読んでいても全然分かっていなかったのだな~と思いました。 紹介していただいたHPも、とても興味深く拝見しました。 回答ありがとうございました。
- ngc7000
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ちょっと視点が違いますが 平安時代の平均寿命は、男32歳 女27歳だそうです。 http://www7.ocn.ne.jp/~takebo/syakai/heian.htm だとしたら >実際のところ、当時はこういう人事があたりまえだったのでしょうか。 さもありなん。となりますね。 しかし http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj2000/30264/heian.htm 貴族全盛期の平安時代中期、貴族の寿命は、 男性が50才くらい、女性が40才くらい、ともあります。 いずれにしても、寿命が短い分あり得ることですね。
お礼
おそらく、貴族と庶民とで(栄養状態もろもろの理由から)ずいぶん寿命は違ったのでしょうね。 貴族の女性が17~8歳で行き遅れ扱いされたわけですから(汗)やはり男性も、10代後半で一人前だったのでしょう。 …つくづくこの時代に生まれてなくて良かった、と思ってしまいます。 回答ありがとうございました。
お礼
>大げさに書いているのではなく、実状がそうだったのです >読み手が、最上流貴族または、最上流貴族にあこがれる、中・下級貴族の子女だったということがあります。 なんとなく、フィクションであるからには誇張もあるだろうと思っていました。しかし事実、最上流貴族というのはそういったものなのですね。やはり、リアリティなくして小説は成り立ちません(苦笑)。 当時でも、宮廷絵巻というのは憧れの的で秘密のベールに覆われていたのでしょうから、事実を事実のまま描いても十分に「夢のような」世界だったのでしょうね。 >中納言以上の位にある人々がぼんくらであっても、中・下級貴族の実務役人が指揮している限り、中央の政治も、問題なく進行したということです。 官僚政治の原型というのは、1000年も以前のこの時代にすでに出来上がっていたのですか。 >上位官職を占有してしまえば、他の家のものが、上に昇って来るということが困難になるということです。 なるほど。青二才であってもとにかく一族で位を埋めて穴を作らない…ということが大切なのですね。 …うぅむ。こうやって考えると、戦前の財閥やら現代の家族企業やら、平安の時代からずっと同じような形態で日本は進んできたのだなぁと思えてきました(血涙)。 翻って考えると、それで時代が治まっていたのだから、平安という時代は古代にしてはとても成熟して安定した時代であったという証明でもあるように思えます。 平安時代は階級社会であった…というのは、言葉としては理解していたのですが、貴族階級のなかにもまだランクがあって、源氏物語の登場人物というのはその中でもトップクラスで、源氏はその貴族のピラミッドの頂上である(考えてみれば天皇の御子さんなんだものなぁ…)ということが、よく分かっていませんでした。 というか、そもそも現代の感覚に置き換えて読もうとしすぎていた気がします。 ほかにもいろいろ考える契機になり、とても勉強になりました。 回答ありがとうございました。