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神の子キリストと神ヤハウェの違い
大学生男子です。普段は物理の勉強をしています。 最近島田荘司の魔人の遊戯、という本を読んで旧約聖書の神、ヤハウェを知ったのですが、この神様はキリストとだいぶ性格が違いますよね? 情け容赦がなくて人に攻撃したりする神ヤハウェと愛について説くキリストとはぜんぜん違うように思えるのですが、この辺をキリスト教の方たちはどう解釈してられるのでしょうか?キリストの態度の方を見習うべきとお考えですか? ヤハウェだったら汝の敵を愛せ、なんてきっと言わないですよね? キリストよりも偉いはずのこの神様をどう思われますか?
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No.5です。 魔人の遊戯 読みました。 面白かったです。 赤い巨人の登場で想像したのが、神が最初に創造したとされるアダム・ガドモン。 聖書を読むと、編集ミスなのか、エロイスト ヤハウエイストによって書かれたものが混在しているからなのか、まるで神は少なくとも2度人間を作ったかのように読めるんですね。 アダムの前に作られたのが、アダム・ガドモンという話もあります。 ちなみに。。。。 ↓ http://www.knet.ne.jp/~ykkkh/C7_2.htm No.7さんの書き込みを見て、フンフンと思いました。 もう一つ、別のシーンを思い出しました。 湖面に出た赤い人間。 新世紀エヴァンゲリオンのアスカの乗る二号機。 湖面から赤い十字の火柱が上がり、もりもり自分を殺そうとするものを殺していく。 ちぎって、まっぶたつに折って、敵の血を浴びながら、生への渇望ゆえに、殺戮をしていく。 最後は人間が作ったアダムの子らによって、両腕を切断されて、目をロンギヌスの槍で刺され、内臓を食われ解体されちゃうんです。 なんかティアマアトとマルドゥック戦を思い出す。 ところで、この神の虐殺をどうキリスト教はみているか。 イエスのエリコの町での殺戮を、神父は話したがらないと聞いたことがあります。 だから、どういう説明をしているのか、私は知りません。 が、参考までに。 ↓ http://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/divine_murder.html 日本の神話もエジプトの災難と似たような話があります。 蘇民将来。 この虐殺した神は、スサノオってことになっています。 ユダヤ教の過ぎ越しの祭りと同じ内容。 他にもすごいことやった。 とうとう寛容な天照も激怒して、天の岩戸にひきこもったくらい。 残虐さは日本の神様も負けてないようです。 ソーラン節。日本人は聞いても意味不明なのですが、ユダヤ人が聞くと、意味ある歌になるらしい。 <神の御力によって押し進んで行けますように!>という行進曲になるそうです。 モーセもヨシュアもソーラン節を歌ってばく進したのでしょうか。
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- mmky
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[情け容赦がなくて人に攻撃したりする神ヤハウェと愛について説くキリストとはぜんぜん違うように思えるのですが] [ヤハウェだったら汝の敵を愛せ、なんてきっと言わないですよね? キリストよりも偉いはずのこの神様をどう思われますか?] 正直で鋭い感性ですね。ご指摘の通りですね。砂漠の神様といってもエジプトまで含めるとユダヤのヤハウェが一番えらいわけじゃないんですよね。エジプトではラー(太陽神と呼ばれる神)がいますしね。キリスト教では新約と旧約しか読み物がないですから話は偏っているのですね。ヤハウェがユダヤの祟り神であることは間違いないですね。イエスは愛の神だからヤハウェとは相容れないですね。明らかに愛の神イエスが、父といっていたのは違う愛の神様ですね。キリスト教徒が戦争好きなのは祟り神ヤハウェの影響ですね。あなたのように「おかしい」と思わないからですね。キリスト教徒だけに責任があるのではなく、イエス自身にも混乱があったと考えるべきでしょうね。「汝の隣人を愛せよ」とゴルゴだの丘で黙って「生贄的処刑」を受け入れることには明らかに言動と行動に矛盾が見られますしね。ユダヤの祟り神から逃れるには、純粋に「汝の隣人を愛せよ」に従うのが真のクリスチャンでしょうね。また、その父は愛の神であると信じることでしょうね。実際にそれがただしいのですがね。
No.4です。 そのNo.4の回答で 《きわめてひどいドグマだと思われる内容を含んだ新約聖書の箇所を掲げ》ましたが それは 自分たちの信仰の内部における論理だけに従っているゆえに そう呼びました。旧約聖書との対比を論じたその内容にしても あとは ほかの信仰との共生や哲学としての合理的な説明が 補われれば まちがいではないのであって わたしも 従っている内容です。 そのような点など 補足できればと思って あらためて投稿致します。 旧約聖書において 現代から見て欠点だと考えられるところは 民族内部だけに 優しいと思われるところです。 モーセを通じて与えられた十戒も 《イスラエルの共同体全体》に向けたものです。恣意的に拾いますが。 ▲ (レビ記 19:2~・・・) ~~~~~~~~~~~~ 19:2 あなたたちは聖なる者となりなさい。 19:3 父と母とを敬いなさい。 19:4 偶像を仰いではならない。 ・・・ 19:11 あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。 19:13 あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。 19:14 耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。 19:15 あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。 19:16 民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。 19:17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。 19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ かなしいかな 民族共同体の外の異邦人には 及びませんでした。 イエスが言ったとして伝えられるところでは こうです。 ▲ (マタイ 5:43~48) ~~~~~~~~~~~ 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』(レビ記19:18)と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たしかに レビ記(19:18)には 《隣人を愛せ》とはあるが 《敵を憎め》とはありません。《罪を負う同胞を率直に戒めなさい》(19:17)とはありますが これらは 同朋(ユダヤ人どうし)のあいだでのことです。けっきょく 同じはらからであるかどうかは 味方か敵かという区別にまで 生活習慣として なっていたのだと考えられます。要は イエスによって この垣根が取り払われたことだと思います。 パウロによれば レビ記(19:18)の《復讐してはならない》を 全人類に及ぼして ヤハウェーにしても 《人びとに 〈復讐〉を 認めていたわけではない》と言います。 ▲ (ローマ書12:17~19) ~~~~~~~~~~~~~~ だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(申命記32:35)と書いてあります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まだ 論証したとは思いませんが ★ キリストよりも偉いはずのこの神様をどう思われますか? ☆ に関しては ○ 同じ神である。イエスが《父》と呼ぶ神である。言葉による表現においては――そして その影響がある限りで 現実においても―― ちがいがあるけれど 同じ一つの神である。新しい契約への変化は あった。 ☆ このように捉えています。
- kigurumi
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No.2です。 >キリスト教のこういった側面ってなんだか人間くさくて、親しみが持てますよね。 >すごく、全知全能の神様っぽくなくて。 憲法第9条の方が、全知全能の神の思考であって欲しいですね。 <魔神の遊戯> 面白そうなので読んでみますね。 ざっとしたストーリーを読むと、世界最古の神話を思い出します。 その物語では、マルドゥックって者は、最高地位を欲して、最高の神であるティアマアトを殺して、その体を八つ裂きにして、それをもって天と地を作ったとなっています。 だから魔神ってマルドゥックってことかも。 その後、この神は身の回りの世話をさせるために、ティアマアトの体を引き裂いて大地を作りましたが、その土とキングーの血をこねて、人間を作った。 人間に掟を与え、掟を人間が思い出すうに、空に虹をかけたとなっています。 アーク(弓)ですね。 聖書では同じく神は土と血を混ぜて人間を作ったとなっています。 アダムってアダマ(赤い土)って意味らしいです。 で、エヴァが作られたとき 、「これこそイシャーと呼ぼう、イシュから作られたのだから」と言ったとか。 エヴァってhawahのことだと思うんですね。 意味は簡単に言えば生命・全生命の母。 ちなみにティアマアトは全生命の母。 初源の神で、彼女の前には神はいなかったのですから。 彼女がぽこぽこ神々を生み出したのですから。 イシャー、イシュは意味知りません。 YHWHは、ヘブライ語の生命と女を意味するHWHからきていて、HWHをギリシャ語にするとEVE。 HWHにI(yod)をつけるとYHWHで創造の言葉になるそうです。 創造が可能なのはティアマアトでしたが、その力欲しさにマルドィックが挑み ティアマアトを殺して奪ったので、、、、 しかもティアマアトの肉体から人間を作って、人間に掟を与え、身の回りの世話をさせたので・・・。 魔神の遊戯・・・・かな? 本を読んでみないと、作者がどの程度の理解なのかわからないので、本読んでみます。 世界最古の神話の内容を知っているっぽい。 ルシフェルは最高地位を欲して、神に挑んで落とされたと聖書には乗っていますが、ユダヤ人たちは同情的な思いでその悲劇を捉えていることが聖書から伺えます。 マルドゥックの場合、最高地位を手に入れていますから。 しかも自分自身は創造の能力は無いが、創造の力を持つティアマアトの肉体を使うことで生命を誕生させることが可能になっていますから。 どうしてもマルドクックを、聖書に登場するヤハウエイと同一視してしまうんですね。 残忍さと出世欲が強い面はそっくりだし。 共同体内に関する治安の制定もやっているので、自分の身の回りの世話をする者が、いがみあっていたら、戦闘時に団結しないので、結束を固める意味でも、律法を制定したのかもしれない。 といってもエジプトの宗教が律法に影響を与えていますが。。。 死んで再生するってストーリーも最古の神話を保持するグループの神話にもあるし。 いずれにせよ、旧約でも新約でも、自分に害を及ぼす者を愛せよとは書いていないことは間違いありません。 イエスは「汝の敵を憎めと教わってきたが、」と言っていますが、「汝の敵を憎め」など旧約聖書のどこにも書いてありません。 イエス~ ちゃんと読めよぉ~ どこに書いてあるんだよぉ 嘘言っちゃいかん! まあ 預言者じゃなくて、支配者がそう今まで言ってきたから、「そう君たちは今まで教わってきた」と言ったのかもしれませんが。 しかもイエスの説明は、ローマ兵に対してじゃなく同胞内における愛を説いている。 ね? 自分意危害を加えるものを愛せよなどイエスは言っていないんですよ。
《あなたの神、主は 焼きつくす火、ねたむ神である》(申命記4:24)とあるとおり 異民族への殺戮をさえ民に命じています。 ひとつには 民族ごとに固まっていたという人間の社会のあり方にかかわっていたと思われます。いまだに 孤島ひとつが 国民の命であるという情況も見られるようにです。 もう一つには 《たのしい我が家》というとき 《たのしい》のは 細かく言えば 《家》ではなく 《そこに住む人びと》が です。そのように 《ねたむ神》というとき 《ねたむ》のは――表現上 擬人化されていますから ややこしいでしょうが―― 《神》であるかどうかにかかわるでしょう。 つまりは 表現上の問題であるとともに その当時 人びとの心の情況は そこまでの程度であったとも考えられます。 きわめてひどいドグマだと思われる内容を含んだ新約聖書の箇所を掲げます。旧約との対比を論じています。 ▲ (ヘブル書9:27~10:18)~~~~~~~~ また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。 いったい、〔旧約聖書の〕律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。 もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。 ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。 あなたは、いけにえや献げ物を望まず、 むしろ、わたしのために 体を備えてくださいました。 あなたは、焼き尽くす献げ物や 罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。 そこで、わたしは言いました。 『御覧ください。わたしは来ました。 聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、 神よ、御心を行うために。』 (詩編40:6~8) ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。 『それらの日の後、わたしが 彼らと結ぶ契約はこれである』 と、主は言われる。 『わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつ けよう。 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』 (エレミヤ書31:33~34) 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たしかに 変化がありましたね。
- vaidurya
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簡単に説明すると、古くアブラハムの預言からはじまったのがユダヤ教で 宗教学的には、その後の宗教家が堕落した時代に 改革を進めた一人のラビと、その支持者によって成立したのがキリスト教です。 そして柔軟性によってキリスト教は広まり 変質し分派し、宗教家の堕落を受けて 新たなる預言者としてムハンマドが立ち、イスラームが生まれます。 つまり、1400年前にはキリスト教を否定し、世界的に広がった教えがあるわけで 今更論ずるほどでもなく、イエスは単なる人として見ることができます。 しかし、仏教的に三宝(仏法僧)という概念で考えれば イエスと教えを、神と同等に重要なものと考えてもいいと思います。 ちなみに日本人は言葉の意味を理解せずに外来語を捉えるので キリストと呼ぶことが多いのですが、イエスと呼ぶほうが妥当です。 (イエスはギリシャ語表記から来た発音で、本来の名前とは違います。インドの言葉が中国を経て日本に伝わったのと似たような事情です) ムハンマドは新たな預言者であり、イスラームではイエスも アブラハムやノアと同じ預言者だと考えます。 そして、その預言こそ神の意思そのものです。 キリスト教では旧約聖書のころの試練をこえて 今、神の意思はイエスによって再び説かれたと解釈します。 ゆえに、キリスト教的にはイエスの言葉は(単一たる)神の言葉と同義です。 ユダヤ教やイスラームから見れば「それは違う」ということになります。 これは共に、その(単一たる)神の存在を前提にした考え方です。 仏教ではそういう単一たる神(唯一神)を認めないわけですが やはり仏教とヒンズーの間で、同じ存在に対して違う認識が多々あり 日本では宇賀天神と習合されたサラスバーティみたいに 変化して親しまれている神格はめずらしくありませんね。 ゆえに、改めて、神は自身の心の中にあるべきものだと思っています。 まぁうちの島じゃ、デウス頼りに立っても… 島を救ったのは数万人の生贄か、それとも鈴木代官というオチで…
お礼
>仏教ではそういう単一たる神(唯一神)を認めないわけですが やはり仏教とヒンズーの間で、同じ存在に対して違う認識が多々あり 日本では宇賀天神と習合されたサラスバーティみたいに 変化して親しまれている神格はめずらしくありませんね。 >ゆえに、改めて、神は自身の心の中にあるべきものだと思っています。 非常にお話の流れが分かりやすくて、助かりました。なるほど!と思いました。ありがとうございます。 きっと同じ宗教でも、自分の心の中にいる神様と、他の人とじゃあ違うんですよね。 しかし宗教を信じている人は、そんなことを感じたりしないんですかね?
- kigurumi
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>ヤハウェだったら汝の敵を愛せ、なんてきっと言わないですよね? いえ、言いました。 集団内の規定が作られ、例えば個人能力に差が出て、身売りする人も出てくるわけです。 だけど、永久にその人は誰かの奴隷になるわけではなく、7年間だったと思いますが、その一定期間が過ぎたら、のれんわけというか、財産を持たせて開放しなければならなかった。 何故なら、自分たちもかつてはエジプトの奴隷であり、神が解放してくれたのだから と言うわけです。 また、貧困のため、服を質に入れてお金を借りる人もいた。 夕方になっても利子を払えなくても、その人に利子を取らず服を返してやれ となっています。 気に入った人には、「利子はいいよ、服は持ってかえりな」で、いつも喧嘩している(同胞内の敵)人には、「利子が払えないなら服はもらう」は駄目だというわけです。 どうしてかというと、その人は服が無いと夜凍えてしまうから。 神が人々に愛を示すように、あなたがたも、同胞に対して愛を示しなさい というわけです。 これはイスラエルという民族内における規定。 同胞愛です。 他にも、気に入らない人の家畜が荷物の下敷きになっていたら、かけつけて敵(あくまで同じイスラエル人)と共に、家畜を助け起こせと規定されております。 というわけで、旧約聖書でも、同胞内における愛は定められていました。 新約聖書においても、あくまで同じイスラエル人内における愛は解かれております。 しかも、旧約聖書の上で書いた同胞内の愛の規定を引用して、イエスは説いていたと思います。 敵とは、他の民族のことをイエスは言っているのではなく、同じイスラエル民族内部のおける、気に入らない人のこと。 この神は、自分の選んだ民以外に対しては情け容赦ありません。 彼の愛する民をいじめる他民族に対しては、手厳しいですが、それは母親が我が子がいじめられると、徹底的に相手を攻撃するのと一緒。 「うちの子になにするんだ」というわけです。 で、このように独自の路線の宗教だったので、ローマから派遣されていた提督は、ユダヤ人は独善的な宗教をしていると批判して、いじめていたわけです。 独善的だったわけじゃなく、ローマが窮地に立つと、ユダヤから兵を派遣して助けたり、財政的な支援をしていました。 それで、ユダヤはローマ帝国内で、特別待遇されていた。 ローマから寵愛を受けていたわけです。 それが気に入らなかったローマから派遣された提督は、ユダヤ人いじめをしていた。 ピラトもユダヤ人嫌いだったので、ユダヤ人をいじめていた。 ユダヤ人がおとなしいのをいいことに、神殿から財宝を盗んだりしたため、とうとうユダヤ人が、神を冒涜したとして、ローマ帝国に蜂起することになったのですが、実はユダヤに派遣されていた提督が、ユダヤでさんざん悪さしたことが本部にバレる前に、ユダヤ人を煽って、ローマにたてつくように仕向けていたわけです。 そうすれば自分の悪事がバレず、ローマ帝国本部はユダヤ人が悪いと思うだろうと。 で、ユダヤ人はローマ帝国に蜂起するわけです。 汝の敵を愛せよ? いえ、だから同胞愛は解きましたが、危害を加える異教徒まで愛せよとは解いていないんです。 これが、キリスト教が他の集団を敵とみなし攻撃できたことです。 イラクだって異教徒だから、キリスト教国アメリカは殺しにいけたわけです。
お礼
>同胞愛 >敵とは、他の民族のことをイエスは言っているのではなく、同じイスラエル民族内部のおける、気に入らない人のこと 初めて知りました。ありがとうございます。歴史的なお話も凄く面白かったです。 なんだかヘルシングの世界ですね… けど、キリスト教のこういった側面ってなんだか人間くさくて、親しみが持てますよね。すごく、全知全能の神様っぽくなくて。
- kyata_iosis
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私の母親がキリスト教原理主義に傾倒しており、イエス・キリストに対してヤハウェを優越しておりました。しかし正統キリスト教では三位一体の教義が採択されております。三位一体とは「父なる神」と「ロゴス」である子なるイエス・キリストと「聖霊」の3つが、皆尊さが等しく、神は固有の三つの位格(自立存在)でありながら、実体は同一であるという意味です。度々クローバーの葉が一つの茎から出ている様に例えられます。 ヤハウェを信奉するのはユダヤ教と前述のように一部のキリスト教原理主義者ですが、ユダヤ教ではイエスをメシア(救世主)として認めず、新約聖書も聖典ではありません。また、キリスト教ではイエスの登場によって旧約は破棄されたので、ユダヤ人が守り行っている律法の元には無いと考えられております。
お礼
>キリスト教ではイエスの登場によって旧約は破棄されたので これでかなりすっきりしました。ありがとうございます。
お礼
旧約の教えを新約でただしたり、批判したりするんですね… 自分は宗教について、殆ど何も知らない状態なので、新鮮な驚きがあります。面白いですね。 ありがとうございます!