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感謝ということについて
感謝の心が足りないとか、もっと感謝しなさい、とかよく言われます このことについて 1.人間に生まれてきたこと自体に対し感謝しなさい、という言い方や 2.食べ物などについて、あなたの口に入るまでには沢山の人の苦労があることを思い、感謝しなさい、という言い方もあり 3.具体的に、困っていたことに親切にしてくれた人に対する感謝、というものもあると思います 私の思いでは3.については普通感謝出来ますが、2.については半分は解るような感じがしても、半分はお金という対価(自分も別の分野で汗をかいている)を支払っているのだから、お互い様では、という感じもあります 宗教関係の本などでは、2.の感謝が常に言われていると思います 自分は感謝したくない、と言うのではなく、もっと3.以外のことでも感謝できることの方が良い、と思っていても、なかなかそういう心になれないところがあります ご意見をいただければと思います
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哲学からは、みなさんの回答とは逆に思えるような回答ももっとあるかなと思っていました。 不自然な無理な感謝は 意味が無いのではないか?という懐疑論です。 ビジネスの場ではその習慣化とかはとても大事だったりしますが、それは必ずしも真心そのものを意味してはいません。 形から心が生まれるという要素もけして小さなものとは言えませんが、 形の熟達から心の形骸化や演技(ウソそのものとしての)も生まれてきてしまう可能性もあるところ、 たんなる形は、子供達に長い目でですが、悪影響を与えてしまうはずです。 (上記の文に、ビジネスの否定の意味とかは無いので 付け加えておきます。ビジネスにはビジネスの価値があり、その中での感謝の形は大切ですし、その習熟のための習慣化とかも大切です。) だから哲学では、その自然な心とか、真心の世界を 道徳心や「だだしい宗教心」と 同じぐらいしっかり見据え大事にし それを養う道を探るべきところと たとえば私ならそこにも哲学の使命を感じます。 ここで、わざわざ「ただしい宗教心」として「ただしい」という言葉を入れたのは、 これは あまりにもいろいろ信仰の形が複雑化しているからです。 自分で考えることをおこがましいこととするのを信仰としてしまっている人があまりにも多かったりします。 そうではなく ここでいう宗教心とは 今生きてることの不思議(最終的には自分のお母さんから同じ体形の別な人が生まれていた可能性まで哲学では突き詰めるはずです。 自分はいなかったかもしれない存在なんです。 そうすると そういう意識とは何なのか、存在ってなんなのか?と謎は奥の深い疑問ともなってきます。)について考えに考えた後に、それでも生きてるってうれしいと思えた時に見えてきたり 人に伝えずに入られなくなったり(伝道)する世界です。 時には絶望の淵をそのためにくぐる人もいたりする世界です。 そこまで考えなくても、 たとえば、こうしてたった今 書いてる私もそしてたった今これを読んでるtateyama55さんというニックネームの人も、 いなかったかもしれないのに、たしかにこの同じ大地に生きていて、何かを感じ理解しいき続けているとうつながりの認識を もう宗教心の入り口と考えてください。 しかもそれは「ただしい宗教心」の入り口であるはずということをです。 私たちは、そういうことに気がつける人間どうしとして、たった今ここに「存在」している 同じ人間どうしであるわけです。 リスペクト(尊敬)の根元への気づきと言ってもいいと思います。 この基本は、しかして、悪人にもあてはまることなんです。 同じ人間であり 理由があったからその長い過程や強い因果があったから悪の心をそこに育ててしまった人間であり、自分もその同じ過程を通ったならば同じ悪人になってしまったはずだという 考えです。 これが宗教心の基礎教育あたりのこととなるべきところと私は思っています。 すべての人を許すというより、 それを当然の理性の帰結と理解する知性のことです。 自分も含めてです。 しかし、もちろん、これは「だから世の中なるようにしかならない」という諦めとかニヒリズムのことではないです。 それだから心の 因果の根っこから哲学しようという思索する人間の責任感の問題だということです。 そうすると、そこの因果の根っこの部分には 何かを表現する時のウソの問題、不自然な心を認めてしまう時の問題が出てきてしまうということなのです。 物事を深く総合的に厳密に本質的に探る思索であるはずの哲学がそのへんを見落としたら、 しかしならが、 おそらくこの世から悪人はなくならないと私は思っています。 詳しい論議の紙数は無いですが 言いたいことは少しはわかっていただけたかと思います。 けして感謝の心に反対してるというわけではないのです。 私の知ってるあるおばあさんが「ありがとう」って言って しあわせそうに死んだそうです。 もしそこに無理があるつくりものだったら、はたしてしあわせそうだったかどうか? ということでもあるのです。 では、どうすれば 感謝の真心は心に育つのかと言えば、それは苦労も喜びも幸せもすべてそれは たくさん経験するにこしたことはないところ、ともかく自分を「見つめ」人間をよく知ること、人間性を磨くことというふうに簡単に言えばそうも言えます。 逆にそれはそんな簡単なことではないということでもあるのです。 簡単でないと自覚することが けっこう大事だという点は、たぶんですがフワポヨさんでしたっけその方の考えと同じだと思います。 私は まずは、1も2も3も、そちらの自然な感覚で充分だと思いますよ。 だだし、リスペクト(尊敬)の哲学という点は 皆さん同様深めていく努力をしていきましょう。 私自身にも言えることです。 ここには矛盾はありません。 そこからは感謝だけでなく、 真に 困っていたら何とかしてあげたいという 感謝と混じった行動的な気持ちも自然に伴うようになるはずですし、 ともかく これはその ここまで生きてこられた同じ人間への リスペクトとの総合的な感性の問題であると考えないと、 へたすると不自然になるという哲学なのですが、(特に1と2が) むむ、 結局は、みなさんと同じ考えかも? アマノジャックより(^^);。
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- cyototu
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>《自分が 〈もっと感謝する〉ようになってから 説教してください》と言ってやってください。 ここは哲学欄ですので、この言質を懐疑論的な立場から考えてみましょう。まず始めに出てくる印象は、この主張が大変分かり易いと言うことです。だからこそ懐疑論的な立場で論じることが意味をなすと思います。 似たような例で、最近アメリカで起こった出来事があります。常々、同性愛を非難し、アメリカの家庭の価値を表看板にし続けて来た共和党の指導者的な上院議員が、ある飛行場のトイレでの男色のおとり捜査に引っかかり、逮捕された事件が在ります。これはアメリカの政治家に常に在る「偽善」の典型的な例でした。自分で出来もしないことを、さも善人がって、他の人達に説教をし、アメリカのキリスト教の保守的な選挙民の票を取り込んで当選し続けていたのです。こんな連中には、 《自分が出来るようになってから、説教してください》と言ってやってください。 という言葉に意味が在るでしょう。 ところが、同じような言動でも、例えば親や教師が自分でも出来ないことを子ども達に説教する場合は、偽善でもなんでもなく、全く正しい行為だと思います。親達は、自分たちがそうしてこなかったことで、辛い目に会ったり、後悔して来たことを、子ども達に繰り返してもらいたくないから、自分では出来なかったことを「そうするな」とか「そうしなさい」と言って教えているのです。 だれでも思春期になると、独立心が前面に出て来て、親や教師の忠告をうるさく感じるのは自然な成り行きです。ですが、その感じを持ち続ける状態に留まっているようでは、その方はいつまでたっても大人に脱皮できない状態で、だから、人間に成長できずに一生終わってしまうかもしれません。その後大人に脱皮することで、その方達が自分で出来ないことでも、それを若者達に要求し期待し、自分のした失敗を繰り返さないでほしいといういう思い入れをぶつけているのだと、感謝できるようになりたいものです。おなじ言葉でも、私には、偽善ではなく本当の意味での善意になっている場合もあることを認識すべきだと思われます。 ですから、《自分が〈もっと感謝する〉ようになっていなくても、説教してやってください》と言いたいです。
お礼
有難うございます 「親達は、自分たちがそうしてこなかったことで、辛い目に会ったり、後悔して来たことを、子ども達に繰り返してもらいたくないから、自分では出来なかったことを「そうするな」とか「そうしなさい」と言って教えているのです。」 確かにそういうことはあります ただ自分の場合、子供が素直に聞いて、理解してくれる、ということは難しいようですが。
★ 自分は感謝したくない、と言うのではなく、もっと3.以外のことでも感謝できることの方が良い、と思っていても、なかなかそういう心になれないところがあります ☆ とおっしゃるところに同感します。そのほかに 何も要らないと考えるものです。 その心は No.7の方の触れておられるように 不自然さについてどう考えるのかという懐疑論にあります。 言いかえると 不自然なかたち(心)でする感謝とは何か にかかわります。 言いかえると 不自然な気持ちを起こさせるのは 誰であって どういう心でそうするのか です。 道徳は 自然な気持ちであり 宗教が感謝を説くのは まごころからであると 誰が どのような考えで言っているか です。 ★ 感謝の心が足りないとか、もっと感謝しなさい、とかよく言われます ☆ 《感謝の心が足りるようになるように 互いに 相手に 道徳を説くという不自然なおこないを控えるようにしましょう》とおしえてやってください。《自分が 〈もっと感謝する〉ようになってから 説教してください》と言ってやってください。 それで 社会は よりよくなるでしょう。 新しい意志が生起し 新しい眼が得られたなら それをめぐる自己の全体としての到達度合いを述べているべきです。 新しい眼が用意され発見されたそのことを 理論的に説明しても 事は始まりません。《新しい眼》や皆が大事だと思う心が 歴史を継承するのではなく――それは いわば前史としての歴史を つねに継承しています―― それぞれのわたしが 歴史を継承するのです。 到達度合いに応じて わたしたちは 互いに語りあいつつ 進みます。それで そこで すべての事 あいはたらいて益となる。 と言われます。わたしたちが ともに皆がこぞって 歴史の共同相続人になるのは 不自然な道徳論を死なしめたときだと考えます。道徳律は すべて 不自然だと考えます。 いわば 異言を語ることを禁じてはならない。 と考えていることは 大事だと思いました。
お礼
有難うございます なるほど、感謝しなさい、というのは道徳になる、ということですか 今まで、宗教と道徳ということににつてあまり意識したことはなかったので、ご意見はとても考えさせらる点です いずれにしても、不自然な感謝をする必要はない、ということだと思いました 安心できます
- fuwapoyo
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tateyama55さん、またマリア・フワポヨが出てきました。 感謝は道徳心か宗教心によってはぐくまれます。道徳心も宗教心も強制されるものではなく、道徳や宗教に接していないと身に付きません。 宗教で考えてみましょう。宗教では「感謝しなさい。」とは説きません。「感謝できるようになりましょう。」と説くのです。 つまり感謝とは、感謝するように心がけて身に付くものではなく、“感謝ができる環境”にあって始めて身に付くのです。ポイントは、感謝するかしないかではなく、感謝できるかできないかなのです。 「感謝の時間」を持って感謝できる人は、感謝のできる人ということです。 さて、どのようにしたら感謝の心が具わるでしょうか。感謝とは「有り難い」という心です。つまり、“有る”ことが“難い”状態であるということです。“有ることが難い”状態は日常的には存在しません。(2)で感謝できないのは“有ることが易い、あたりまえのこと”という認識があるからです。 それと、感謝の心に接する必要があります。“有ることが難い状態”が人の心によって成り立っている場合です。(2)の状態も、相手に心があればこちらの心もともなってくるのです。 しかし、感謝はなかなかできなくていいのですよ。もうひとつのポイントは「感謝はなかなかできないな・・・」と気づくことなんです。このことに気づいてる人は、じつは徳の高い人なんです。 徳の高い人は行いも善いので感謝のできる状態にもなりやすいのです(このことについて詳しくは省略します)。徳が高いから(2)の場合も、“有ることが難いこと”と受け止められるので感謝できるのです。 tateyama55さんは感謝の難しさがわかっていらっしゃるので、感謝の心も持ちやすいと思いますよ。家族の欠点をあげつらう自分に嫌悪を感じるくらいなんですから。徳が高くなければtateyama55さんのように自己の欠点を認めようとはしません。 きっと、多くの優しい心に囲まれたいい環境でお育ちなのでしょう。意見ではありませんが、ご質問から「心」を感じましたでチョット述べました。 いい質問ですね。
お礼
マリア・フワポさん 先回に続いて有難うございます ご意見を※1~※3に要約しました ※1宗教では「感謝しなさい。」とは説きません。「感謝できるようになりましょう。」と説くのです ※2ポイントは、感謝するかしないかではなく、感謝できるかできないかなのです。 ※3徳の高い人は・・・徳が高いから(2)の場合も、“有ることが難いこと”と受け止められるので感謝できるのです。 解りやすいです、というか納得できます 感謝はなかなか出来なくていい、というご意見に安心しました 自分のレベルで有り難いと思えれば感謝する(もっとも、それ以外には感謝のしようがないのでしょうが)、と言うことだと理解しました。
- cyototu
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>宗教関係の本などでは、2.の感謝が常に言われていると思います。 それは何故だと思いますか。それは、そんな大切で正しいことなのに、貴方のように、よく分からない方があまりにも多いからなのです。 私の尊敬する先生が昔、「教育とは、ほっといても分かるようになることを教えることではない。誰かに教えてもらわなかったら、一生そのことに気付かないかもしれないことの中で、大切なことを教えるのが教育者の役割である」と言っておりました。宗教家達はその教育者なのですね。 >半分はお金という対価(自分も別の分野で汗をかいている)を支払っているのだから、お互い様では、 この考え方は、ほっといても”分かる”ようになる例の典型ですね。でも、それが間違っているから、宗教家達はそうでないことを口が酸っぱくなる程繰り返して言っているのですね。 2.の感謝の気持ちが理解できるか出来ないかで、貴方が単に動物であるというレベルにとどまった存在であるか、あるいは人間という高度な存在にまで成長できた存在であるのかを試されているのです。いろいろな方の意見や、ご自分の経験と思索に問いかけて、貴方が人間にまで成長するという幸運に巡り会えることをお祈り申し上げます。そして、その幸運に巡り会えたら、人間に生まれて来たことに対して、その幸運に感謝して下さい。 蛇足: 3.に関する感謝はそれが余りにも直接的な関係に対する感謝なので、子どもでもチンパンジーでもすぐに理解できることです。事実、チンパンジーは自分に親切にしてくれた相手とすぐ仲良くなりますから。でも、世の中にはもっと複雑で、目に見えないものも一杯在ります。少し話がそれますが、昔読んだ本の中で「アメリカ人の親切とイギリス人の親切」というのが紹介されていました。例えば交通の激しい道路をよぼよぼのお婆さんが渡ろうとしていたとします。アメリカの若い青年が、「お婆さん私の手に掴まりなさい。一緒に渡ってあげますよ」と言いました。これがアメリカ人の親切です。一方、イギリスでは、その場面に気付いたイギリス紳士が、お婆さんのちょっと後ろから黙って気付かれないように一緒に道路を渡ります。もし無事に渡れたら、その紳士は黙ったままその場を離れますが、危なくなったら後ろから助け舟を出すのです。これがイギリス人の親切だそうです。 一見、アメリカ人の親切の方が分かりが良いですが、そのような国では、もしそのお婆さんに誰も声を掛けてくれなくなったら、そのお婆さんは完全に見捨てられたわけです。一方、イギリスのお婆さんは、たとえ誰も声を掛けてくれなくても、どこかで誰かが見守っていてくれていると言う安心感を持っていることができますね。 貴方の存在も、貴方が気付かなかったり目に見えない所で見守られているのですよ。その幸運に感謝して下さい。
お礼
「貴方の存在も、貴方が気付かなかったり目に見えない所で見守られているのですよ」 エゴ、我、自分の欲望みたいなものを中心にしてきたことが、感謝の心の薄い自分になってきたと思います 別の人のご意見にありましたように、身の回りの少しのことにでも、感謝の心をもてるよう習慣作りをしたいと思います 自分の欲望ではなく、周囲を見る眼を心がけたいと思います 有難うございました
- magga
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僕の思うところを書きますね。 1は何だか微妙です。「生まれたこと自体」ってのもなんか??です。両親が生を受ける機会をくれたこと自体や育て上げてくれた労力苦労には感謝できますね。 2はわかります。食べる生命に感謝しろと言われると「感謝して殺しなさい」みたいで微妙ですが。料理を作ってくれたひと、買うための労を尽くした人、販売者、運搬者、生産者… 皆お互い様でも、感謝できるでしょう。その役目をその人なりに労をなしているのですから。その「お互い様」が有るからこそ我々は気分良くそれなりに生きて生けるのですから。 「お互い様」も拒否されたら結構生きずらいでしょう。。。 3はわかりやすいですねwけど時機を見て返してきちんと、「お互い様」にするのがもっと有意義なことと思います。 「貰って、与える」から「与えて、貰う」へ、「与えて、貰う」から「与えるのみ」に成長するのが人格向上と言うものと考えてます。 僕自身はベッキーの発案の「感謝の時間」と言うものをたまにやってます。 自分の身の回りから順を追って感謝できるところを感謝すると言う風に念じて広げていきます。徐々に感謝できる対象を見るようになって行く実感があります。良い面を見るようになると世界はだいぶ変わると思いますよ。 オススメです。 慈悲の冥想も結構オススメです。 心の癖が慈悲に向かうものと感じています。 続けて実験してみてください。
お礼
ご意見により、感謝ということも心の習慣のようなところがあるのかもしれないと感じました 「自分の身の回りから順を追って感謝できるところを感謝すると言う風に念じて広げていきます」 そういう風にには思わず、足りないところ、不足しているところばかりを考え続ける習慣というか、習性(貪欲ということでしょうか)が、感謝の心を育ててない、と言うことかと思います 感謝の木をに毎日水をやるようなイメージをもとうと思います 有難うございました
- mmky
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感謝ですか。 殆どの人は感謝には程遠いですね。 まあ、太陽の気持ちになれば、毎日毎日光を送り続けて数十億年ですが誰一人にもお金くれっていいませんよね。人間もすべての生き物も太陽はあるものだと思って見向きもしませんね。街路樹もそうですね毎年、春になると花を咲かせて人々を喜ばせますがお金くれとはいいませんね。数億年前に人間を創造した神のことなんかすっかり忘れて神さえいない世の中になってますね。りんごの木も毎年りんごの実を付けますが農家がさも自分が作ったように売ってますね。りんごの木もお金くれとはいわないでしょう。些細な仕事で対価を求めるのは人間だけでしょ。すべての生き物はだまってもくもくと奉仕しているのですね。地球を我が者顔に支配する人間がそういうものいわぬすべての生き物に感謝することを忘れると存在できなくなるんですね。地球だっていきものですから大地の神に感謝することを忘れると足元の土地さえなくなるかもしれませんね。つまり、なにをいいたいかといえば、太陽系も地球も、そこに存在するすべての生き物も「感謝」という不思議な力でつながっているのですね。それゆえ昔から「感謝をわすれるな」と教えているのですね。「感謝」は小さく解釈するものではないんですね。でも実際は小さいステップから実践ということなんですね。たまには太陽にも、大地にも、あなたを創造した神にも、街路樹にも「ありがとう」の一言をかけてあげてくださいね。
お礼
<「感謝」は小さく解釈するものではないんですね。でも実際は小さいステップから実践ということなんですね。たまには太陽にも、大地にも、あなたを創造した神にも、街路樹にも「ありがとう」の一言をかけてあげてくださいね。> 解ります、そういう心、あるいは感性を育てないと、と思います 理屈で感謝するのではなく、人間も自然の一員ですからね いりいろなご意見を頂きました方、有難うございました 感謝申し上げます
心を変える案については、ANo.1の方と同じ意見です。 それと、心は人それぞれですから、感謝も個人の頭の中で起きることでしかない…と考えるのはマズイですか? 自分の存在は人のおかげとか、2.の主張もあることなどを知識として頭で分かっていれば良いんじゃないでしょうか。 私も「自分は感謝の心が足りない」と頭で思っていますが、 変えられないのだから仕方ないさ、自分が悪いんじゃなくて運が悪いんだ、そう考えるようにしてます。
お礼
ANo.1の方ご説明のように、自分は与えられている、という自覚をもっと意識するようにしたいと思います 自分の存在は人のおかげ、そういう気持ちも必要ですね。 有難うございました。
生まれた時は、所有物一つ無く、知識一つ無く、自力で生きることすら不可能な、「ゼロ」の状態です。 そのことに気付けば、それ以後は与えられてきたものが多大であることがわかるはずです。少なくとも働いて収入を得るまでは、与えられることだけなのです。 その後、働いて収入を得ることができたとしても、それはそれまでに与えられてきた知識等々があってのことなのです。 また、食物にかかった労力に対してはお金を払っているとしても、その食材(動植物)自体については、その生命を断ってもらっているわけです。 更にもっと書くこともできますが、とりあえずわかりやすい所だけを挙げてもこのくらい与えられる一方であることはあるということです。 ですので、こうしたことに気付けば自然と感謝できるように思います。
お礼
有難うございます 成る程自分ひとりで大きくなったわけでも、自分ひとりで知識や経験を得られたわけでもない、と言うことですね。 与えられてきた(今も与えられている)ものが多大だ、そういう思いが不足していることが、感謝できない心につながっている、ということは その通りだと思います
お礼
有難うございます 「不自然な無理な感謝は 意味が無いのではないか?という懐疑論です」・・・この方が自然で安心できます 太陽の光、空気の存在に感謝しなければ、という言い方は解らなくもないけれども、半分は当たり前、というか有り難いという感覚にはピンとこない、というのが正直な感覚でもありました 前の方の言われる「徳の高さ」、ここで言われる「リスペクトとの総合的な感性の問題」とは多分同じようなことだと思います だから自分の心に無理して、何でも感謝・感謝と言うとウソくさくなる、と自分も思っていました