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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:高田敏子 日々)
高田敏子の「日々」詩の解釈について
このQ&Aのポイント
- 高田敏子さんの「日々」という詩は青山学院中の入試問題に出題されたことがあります。詩の最後の2行には「パン一斤の軽さをかかえて夕日の赤さに見とれている」という表現があります。
- 質問文章の解釈によれば、詩の正解は「軽さ」を気楽さをあらわしており、「みとれている」は「軽さ」を楽しんでいることを意味します。
- しかし、他の解釈としては、「昔は買い物もたくさんあったけど、今ではパン一斤だけになってしまって、寂しくなったなあ」という思いが込められているかもしれません。正しい解釈は個人の解釈によるものであり、詩を読む人の感じ方によって異なる場合があります。
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質問者が選んだベストアンサー
詩人・高田敏子に師事した者です。 「日々」の詩の正しい解釈は、junchannさんのお考えでよいと思います。 師である高田先生は若い頃、お手伝いさんやペットを含めると、大家族の家庭でした。 詩に書かれている通り、子供達が独立し、ご主人が亡くなられ、先生はしばらく一人暮らしをされていました。その頃の感慨をうたったものです。 にぎやかな家庭だっただけに、その落差にずいぶん淋しい思いをされ、晩年の作品はその哀しみをうたったものが主流となりました。 ですから、「子ども達が巣立って気楽になった。昔を思い出して楽しんでいる」とは、ほど遠い心情でした。 パン一斤を買って夕陽に見とれている孤高の姿は、一人残されて生きる哀しみを通り越した、透明な安らぎといった思いに近いのではないでしょうか。 久しぶりに先生の作品を目にして懐かしく思い、junchannさんに感謝しています。
お礼
ありがとうございました。 poemculturさんにご回答いただき、本当に良かったです。 どうしても(2)ではしっくり来るものが無く、この問題は不適では? と思っていました。 この詩は心に残り、どうしてもやりすごすことができませんでした。