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宗教としての傲慢

 すいません、少し長くなります。  以前、日本人、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、インド人(ヒンドゥー教、シーク教)、無神論等の人たちと田舎へ合宿に行きました。  そこで共同生活をしていたのですが、ご飯は自炊です。  そこでご飯の時なのですが、ある日本人がご飯を炊飯器で炊いた後、いつも先にご飯を少しよそい、よく仏壇にあるお供え(名称はわかりません)の事ですがご飯をほんの少し備える例の食器の事です。  その食器にご飯をよそい少し離れお祈り?(手を合わせて、よく日本人が仏壇の前ですることです)をしていました。そこに仏壇はありませんでしたが。またそこは彼の家ではありません。    そんなある日、ご飯が炊けイスラム教の人がご飯をよそおうとするとその日本人がとんできて、「私が先によそうんだ、よそわしてくれ」、とかなりの形相でしゃもじを取りまたいつものように手を合わせていました。 はっきり言って小さな事です。なので周りの人が配慮して常に彼に先にご飯をよそわしてあげるのは難しい事ではありません。実際そうでした。  しかし、そのときの彼の態度があまりに必死というか傲慢というか彼の宗教を強引に押し付けられたようだったのでそのイスラム教の人が言いました。「結局こんな小さなことでも彼は自分の宗教が正しい、私が先にご飯をよそう権利がある、なぜならそれが私の宗教だから権利があると思っている。日本人はイラクでスンニ派とシーア派がこっちが正しい、いやこっちが正しいと小さな違いのために殺し合いをして馬鹿馬鹿しいと言うが彼はご飯を先によそうかどうかという実に小さなことにこだわっている。(どうやらその日本人はご飯が炊けたら一番先にお供えしなければきがすまないらしい)まったくイスラム教の人を馬鹿に出来ない。結局自分の宗教が正しい、自分の宗教を押し付けている、傲慢だ。私は豚を食わなかったりメッカに向かって礼拝する事を他人に押し付けていないのに」と言いました。 言うまでも無く日本は宗教の自由があります。 またその日本人が最初からすみませんが、、、とお願いするような態度だったら違っていたでしょう。 その後、また同じことがあったのですがやはりその日本人は私が先によそわなければいけないんだというような態度でしゃもじを彼の手から取っていました。  確かに小さな事です。しかし私はやはりその日本人の行動はおかしいと思います。別にお供えをするなとは言いません、ただ何も一番先でなければいけないとするのがおかしいと思います。彼の家であれば好きにすればいいと思いますが共同生活しているのです、ましてやいろんな宗教の人がいます。ですのでみなさん、自分たちの宗教に関することをしてもいいと思いますが、他人に押し付けるような事はすべきで無いと思います。今回の事は小さな事です。しかし私はその事から世界中で起きてる宗教対立(イスラム対キリストのような)で、よく日本人が私たちには何で宗教であんな殺し合いするのかわからないね、愚かだね、というのを耳にしますが日本人も同じレベルじゃないかと彼の行動を見て思いました。 日本人の多くの方がしているごく一般的なことであっても状況によって日本人が馬鹿にしている宗教対立と根本は同じ事だと感じました。  皆さんは彼の行動は間違っていると思いますか?    

質問者が選んだベストアンサー

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  • phj
  • ベストアンサー率52% (2344/4489)
回答No.6

まず彼の行動が「宗教的」な行動かどうかを日本人に尋ねれば、大多数の人が「宗教的」な行為ではなく、日常的なこだわりと答えるでしょう。 しかし逆に、何らかの宗教文化に属する外国人に、同じ問いを発すれば、間違いなく「宗教的」であると答えるはずです。 なぜならば、宗教的行為=規範・道徳であるからです。 たとえば何年か前に、ジャネットジャクソンのポロリ事件がありましたが、あれもキリスト教の大罪(姦淫)に触れると多くの人が思ったからであり、その後ライブ放送は5秒ぐらい遅れて放送されるようになりましたが、これ受け入れたのも、「宗教的タブーに触れるなら、放送の自由(真実の自由)をすこし失ってもいい」と考える人が大半だからです。アメリカはいまだに建国の理想にいるのです。 ドイツなどでも、同じ様なことが見受けられます。たとえば日曜日は店舗を営業してはならないという法律がある点です。 これは安息日の考え方が由来しており、今でも法律として残っています。もちろんクリスマス(12/25)なんて何処もやっていません。 これも宗教的行為です。 >日本人の多くの方がしているごく一般的なことであっても状況によって日本人が馬鹿にしている宗教対立と根本は同じ事だと感じました。 そう、根本は同じです。しかし日本人は、自らの宗教(または宗教的感覚)について、世界に例を見ないほど無自覚であり、自分のした行為が外国人からみてどのように見えるのかという点で、まったく理解が出来ない民族だといえます。 彼の行動が間違っているとすれば、それは「ご飯をよそう」と言う行為に必然性があるなら、つまり心の中で規範となっているならば、それは宗教的行為であると言う点に、気づかなかったことです。 共同生活をしていた他の人たちならば、無神論者もふくめてこのような問題をあらかじめ発見し、論議して対処法を考えていたことでしょう。 日本人である彼は、それが「宗教的行為」として捕らえられる行為だということに気づかなかったことが間違いなのです。

nukuhu
質問者

お礼

とても納得できました。ありがとうございます。

その他の回答 (8)

  • h1r0s13
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回答No.9

どの宗教も、同じ根源の光から来ています。命の源は、無神論者でも、いかなる宗教を信じている方も同じなのです。 最初の食物を、神棚に上げるということは、どのような国、宗教においてもやはり同じです。 だけれども、そのお友達のなさること自体は、正しいけど、押し付けがましいことをなさることは邪念です。 邪念は、根源の光とは対極にあります。今まさに世界中に広まっている、宗教間の対立もその範疇にあります。嘆かわしいことです。

noname#29999
noname#29999
回答No.8

それは宗教の問題だけではないような気がします。 日本人という民族の根に巣くう人間性の問題ではないかと思います。 私は、仏前に供えるご飯がはたして炊けたご飯の最初の一膳でなければならないのかどうか、宗教的な事は分からないのですが、合宿に行ってまで自分の日常の習慣を押し通そうとする傲慢さは他の国から見れば噴飯ものです。 何故なら日本人はそんなに熱心に宗教的規律に従って生きている国民ではないからです。 頑固に自分たちの文化、習慣にこだわる事で顰蹙を買う事があるユダヤ人ですが、その点では日本も海外では同じです。 海外生活の意義というのは自分と違う言語、習慣、生活様式等を味わって未知の世界を知る事にあると私は思っていますが、日本人は海外に行ってまで日本の生活にこだわります。 欧米の国に移住しながら、ブランド米にこだわり、住居の中にわざわざ日本から輸入した畳の部屋を作り、日本人だけのパーティーを開き、日本語を話す生活に終止する。 日本人は他の国の宗教対立や規律を批判する前に、世界にある、あらゆる<違い>を受け入れなければならないと思います。 また、自分や自分の国に権利があると同様に他の人、他の国にも権利がある事を学ぶ必要があると思います。 日本人は、いつの間にか一流になったつもりでいますが、社会的マナーはまだまだ一流ではありません。 日本では良しとされる食事のマナーも国が違えば眉を顰められている事にすら気づかない日本人がいます。 「郷に入っては郷に従え」は世界の常識ですが、日本人にはそれを分かっていない人が多いようです。 少し本旨とはズレたかも知れませんが、そういう意味でご質問者が疑問を持たれた彼の行動は異なるものを受け入れない日本人の国民性ではないかと感じました。

  • dai-ym
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回答No.7

彼のその行動が宗教的な儀式なのか、宗教的な儀式を離れてその人の単なる生活リズムなのかわからないことですよね。 そういうことに対して宗教と結びつけることもまたおかしな話だと思います。 元々日本の宗教の根底は八百万の神があります。 どんな神様も受け入れると言うのが根底にあるので、 神様や考え方が違ったら違ったでそれを受け入れれば良いだけじゃん。 そういう考え方です。 だから日本人はお寺にも神社にも教会にも行くし、クリスマスを祝い、除夜の鐘を聞いて初詣をしてお年玉を上げて、と言うように宗教がごちゃ混ぜになってもおかしいと思わないんです。 そういう面からすると彼の行動を日本人の宗教的行動と見るのは無茶がありますよ。 >しかし私はその事から世界中で起きてる宗教対立(イスラム対キリストのような)で、よく日本人が私たちには何で宗教であんな殺し合いするのかわからないね、愚かだね、というのを耳にしますが日本人も同じレベルじゃないかと彼の行動を見て思いました。 自分の回りはこのようなことをいう人はいないのですが、 そういうことを言う人は本当に宗教に無関心で世間知らずなだけだと思いますよ。 宗教ほど厄介な問題は無いのですから。 日本も過去には宗教の対立と言うものは頻繁に起きています。少しでも過去を知っていればそんなことはいえないでしょう。

  • harepanda
  • ベストアンサー率30% (760/2474)
回答No.5

そもそも論を言えば、米をそなえる習慣が本来の仏教には存在するのか多いに疑問だと思います。神道の儀式が、まぎれこんでいるのではないでしょうか。わたしは彼の行動には、感心しません。 日本の仏教が、神道の習慣や悪い考え方を吸収してしまっているのはよくある話で、歴史的に言えば、鎌倉仏教以前の宗派で目立ちます。この手の行動は特に真言宗に多い現象で、あれはもはや、仏教ではありません。ヒンズー教、神道、儒教の何でもありの混交です。そもそも、本尊にブッダよりも偉いという大日如来なる謎のキャラクターを登場させる時点で、根本的に間違っていると思います。 また、神道は、血をけがれとして嫌い女性の月経まで忌み嫌うは、葬式の時は死者をけがれとして恐れるという原始的感覚から塩をまいて清めるは、極めて原始的な宗教で、仏教徒は本来、神道のような間違った教えを乗り越えていかなければならないものです。日本の神道が仏教に与えた悪影響については、鎌倉仏教の時代になると、自己批判と改革が始まります。浄土真宗では、葬式の時に塩をまくという習慣をやめました。日蓮は女性の月経があるから子供が生まれるのではないかと、堂々と主張した人物です。 イスラム教徒からしたら、日本仏教内部での、こんな細かい違いなど知っているわけがありませんから、批判したくなるのも分からないではありません。日本人は無宗教なのではありません。無自覚なだけなのです。日本仏教の中にも色々な流派があり、様々な考え方があるのだということを知ってもらったほうが建設的でしょう。ただ、しゃもじの1番手にこだわるというのは、日本人としても、非常に珍しい行動であると説明したほうが良いと思います。これを日本人の典型例だと思われえると、誤解を放置しておくことになります。 仏教徒だって、戦う時は戦いますよ。織田信長を最も苦しめたのは、武田信玄でも今川義元でもなく、一向一揆です。宗教間での武力対立は日本史上では、仏教受容初期を除けばほとんど存在しないと思いますが、仏教徒が武器をもって、貴族や武士と戦ったのは、いくらでも例があるところです。 イスラムは本質的には宗教的寛容を説くものであり、ヨーロッパにいられなくなったユダヤ人を多数受け入れてきた実績などがあります。しかし、イスラムだって、妙な制度を持っている国は存在しますし、それがイスラムの根幹部分につながっていることもあるのです。 スンニ派とシーア派の争いは、宗教対立ではなく、民族対立だと思ったほうが正しいと思います。文化的には進んでいるはずのペルシャが、新興勢力のアラブ人に支配されているという屈辱感からシーア派が支持されるようになったわけです。 「日本人の多くの方がしているごく一般的なことであっても状況によって日本人が馬鹿にしている宗教対立と根本は同じ」かどうかと言われたら、「根本から違う点がひとつある」と回答するでしょう。イスラムは仏教とは異なり、生活倫理としての性格が強いので、独自の刑法理論を持っていたりすることです。イスラムの問題点のひとつは、「目には目を、歯には歯を」という古い復讐原理に基づく刑法を残している国があることだと思います。キリストが「右のほほを殴られたら左のほほをさしだせ」と教えたのは、イスラムが生まれるよりずっと前のことです。ブッダが「親の因果が子に報いるという悪循環を止めない限り、涅槃への到達は不可能である」と説いたのは、さらに前。ようは、イスラムは、とっくの昔に論駁されてしまっている復讐原理に基づく刑法を、未だに残しているという点では、極めて非近代的なのです。これについては、個人の信仰の自由よりも、政教分離を優先するトルコのような国のほうが、正しいと思っています。

  • nemosan
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回答No.4

>以前、日本人、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、インド人(ヒンドゥー教、シーク教)、無神論等の人たちと田舎へ合宿に行きました。 それだけの人が共同生活をしておいて、何故その行為の理由・目的を聞かないのですか? そこから他者の宗教観等を知る(共有する)良い切っ掛けになると思うのだけど・・・ ちなみに、>その食器にご飯をよそい少し離れお祈り? は、 「竃の神様へのお供え」というより「残した家族への安全祈願」ではないかと思うけど?

  • ousa
  • ベストアンサー率26% (121/449)
回答No.3

 宗教も度が過ぎると醜狂になります。些細なことですが、自覚が無い分厄介です。  私はイスラム教徒を馬鹿にはしていません。教義重んじる態度には尊敬すら覚えます。ただし、剣かコーランかと言うのは間違ってると思います。

回答No.2

 自分は仏教徒です。 本当の仏教の考えによれば、宗教も米も 五蘊(ごうん)であり、 『五蘊皆空』、つまりすべて実体がないのです。 実体がない宗教で争うのは非常にばかげています。 彼の行動はまちがっていると思います。 食糧を神に感謝する、それは敬虔でよろしいのですが、 果たして彼が崇拝する神が共同生活者との争いを 望むのでしょうか?彼は形式ばかりに囚われていて その宗教を正しく理解していないのだと思います。

  • catmilk
  • ベストアンサー率18% (14/77)
回答No.1

これは宗教、というよりその人の思いやりやモラルの問題な感じがします。 結論からしますと、彼の行動は間違えだと思います。 私は仏教ではないのですが仏教の教えには「慈悲」や「人を労わる」ようなことがあったと思いますが・・・。