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シベリウス・ヴァイオリン協奏曲の写譜ミス?
シベリウスのヴァイオリン協奏曲の第一楽章のコーダで、ヴァイオリンソロのパートに、写譜ミスではないかと思えるくらい不可解な音があります。(下記リンクの、2箇所の赤丸です) http://rfvg7u8.dip.jp/project_data_76984hilw/sibelius_vn.jpg 和声進行からもこの作品の様式から見ても、どう考えてもナチュラルがつくのはおかしいように思います。たしかに、導音にあえてナチュラルを付けるのは、時には効果的だったりすることもありますが、音楽的に見て、ここで効果を狙う必要も感じませんし、実際、ド#を避けてまで置いた音符という割りには、「不快・不完全」な印象しか残っていないように感じます。 版の問題もあるのかもしれません。 ただ、4,5人のアーティストの音源を聞いたところ、全員がナチュラルをつけて演奏していました。 みな、慣習的に演奏していて、特に気に留めてこなかった、という程度のものなのでしょうか。それとも、一部では問題になっている案件なのでしょうか。 何か情報をお持ちの方、よろしくお願いいたします。
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- nikto
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下の者です。操作ミスで、同じ回答を複数投稿してしまいました。失礼をいたしました。
- nikto
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ずいぶん前の質問で恐縮ですが、まだ回答受け付けているようですので書かせて頂きます。ネットサーフしていて偶然拝見しました。 これも完全に私見なのですが、コーダ冒頭のこの部分のソロの動機は、曲頭7小節目のアウフタクトから始まる動機の変形ではないでしょうか。そうすると、問題のソロのa-c-dという上行音形は、冒頭部の続き(10小節目のアウフタクトから)のところに出てくる、イ短調に傾斜した部分(質問者様がお礼の1つの中で、ドリア調の響きの例として挙げられている箇所です)の反響とは考えられませんか? シベリウスはあくまでここでイ短調(ドリアでもいいですが)の響きが欲しかったのであって、一瞬で終わるのも、この部分が、冒頭の息の長いメロディを凝縮したものであると考えればそれほど不思議とは思えません(一瞬色彩が変わったのがわかれば十分)。つまり、このcはニ短調の導音ではありませんから、上行形であってもcisである必然性はないですよね。冒頭9小節目の伴奏に現れるcと同じ機能のものと考えて良いのではないかと思います(個人的には、ドリアと言うよりはここは複調だと思いますが)。 私見では、ニ短調-イ短調という複調の基本構造を持った第1主題を、4小節に凝縮したのが、コーダ冒頭のこの部分だと思っています。
- nikto
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ずいぶん前の質問で恐縮ですが、まだ回答受け付けているようですので書かせて頂きます。ネットサーフしていて偶然拝見しました。 完全に私見なのですが、コーダ冒頭のこの部分のソロの動機は、曲頭7小節目のアウフタクトから始まる動機の変形ではないでしょうか。そうすると、問題のソロのa-c-dという上行音形は、冒頭部の続き(10小節目のアウフタクトから)のところに出てくる、イ短調に傾斜した部分(質問者様がお礼の1つの中で、ドリア調の響きの例として挙げられている箇所です)の反響とは考えられませんか? シベリウスはあくまでここでイ短調(ドリアでもいいですが)の響きが欲しかったのであって、一瞬で終わるのも、この部分が、冒頭の息の長いメロディを凝縮したものであると考えればそれほど不思議とは思いません(一瞬色彩が変わったのがわかれば十分)。つまり、このcはニ短調の導音ではありませんから、上行形であってもcisである必然性はないですよね。冒頭9小節目の伴奏に現れるcと同じ機能のものと考えて良いのではないかと思います(個人的には、ドリアと言うよりはここは複調だと思いますが)。 私見では、ニ短調-イ短調という複調の基本構造を持った第1主題を、4小節に凝縮したのが、コーダ冒頭のこの部分だと思っています。
- Ta595
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こんにちは。 詳しいアナリーゼなしの直感での話ですが。 まず,この曲の第一楽章がどのくらい西ヨーロッパクラシック音楽的な意味でニ短調なのか,というところですが,旋法的・民族音楽的要素が強い楽章で,西ヨーロッパ的にいえば一応ニ短調という程度のもので,ニ短調だからドには♯がつく,という前提はあまり気にする必要はないのかも,と思います。 ご提示の部分ですが,これと同じ楽想は第一楽章の5~6分くらいのところ,音楽が急速になる部分に出てきますね。添付していただいたピアノ譜の上段下声部の シシドド|レッレードレ|ミミファファ|ドッドーレミ|・・・・ です。 これはあきらかに旋法的・民族音楽的な楽想ですね。 ヴァイオリンソロはこの楽想に対する装飾と考えるのがいいのかな,と思うのですが,少なくとも二小節目最後の「ドレ」はこの旋律とかぶるため,ここに♯をつけるわけにはいかないだろうと思います。 では他の部分がなぜド♯なのか,ということですが,あてずっぽうながら,このあたりが,初期~中期シベリウスがまだ西ヨーロッパ的音楽語法の影響を残している,というのを逆に示しているのかもしれません。 民族的な楽想に西欧的な装飾をつける,という発想自体,後期にはなくなってしまいます。 私には,西ヨーロッパ的「お約束」とシベリウス的音楽語法が同時進行している面白い部分のように感じました。 私にとっても興味深い発見でした。
- TAC-TAB
- ベストアンサー率76% (1921/2526)
>慣習的に演奏していて、特に気に留めてこなかった、という程度のものなのでしょうか。それとも、一部では問題になっている案件なのでしょうか。 というより、だれでも気に留めてきたと思いますよ。ここはCで無ければならないと、そしてシベリウスは偉大だと・・・ どんな楽器でもよいので、何回も弾いてみれば判ります。 この音が、C#ならこの音楽でなくなってしまいます。C#にするとまったく平凡でつまらないと思います。 たった1音変化させるだけで、短いフレーズにこんなにも表情が与えられるのかと改めて学びました。ありがとうございます。 勉強のためにアナリーゼされているのだと思いますが、 理論があれば、当然それを裏切った意外性を狙う作曲もあるでしょうし、それよりも、理論を当てはめようと考え、それにあてはまらないから云々ということはやめたほうがいいと思います。自分の音楽的感性の成長を妨げることになります。偉大な音楽家が感性で書いた物に一般的な理論が当てはまらないという例はいくらでもあります。創造性というのは、「外す(はずす)」ということにほかなりません。 このフレーズはシベリウスがそう感じたからそう書いたのですよ。それ以外に理由なんてありません。これが好きという人もいれば、変だという人もいるでしょう。そこにいくら古典理論で分析を試みても正解など得られるはずもなく、また、意味もありません。そうは思いませんか? 心を広くして、「なるほど、このフレーズは素晴らしい!」と単純に判るまで感性を磨くことのほうが大切だと思います。何人かの回答者の方が、Cだから良いのだ旨を書いておられますが、「感性」とは教えにくいものだなあと改めて思います。「Dに対する導音はC#です。」みたいなことは簡単に教えられますが、「ここはCだから良いのだ!」ということは説明のしようがありません。
お礼
おっしゃるとおり、全てを受け入れて感性を磨くことは重要ですね。でも、そこをあえて突っ込むことも無駄ではないと思っています。 現に、TAC-TABさんのご回答を含め、これだけの有用なご意見が集まったわけですから… どうもありがとうございました。
- jupitan
- ベストアンサー率36% (227/616)
今までさほど気にも止めないで仰せの曲を聴いていましたが、成る程よく聴けば(スコアを見ても)そうですね。 もっとも、音の数が少なくて純粋な響きのバロックや古典派の作品の中にも同じような感じの曲はあります。 例えば、有名なもので(いずれも弦楽合奏曲) ・パッヘルベル:カノン(D-dur)~44、46小節(Vn1) スラーの付いた16分音符のCにナチュラルが付いています。が、♯が付いたほうが(Cis)とても自然に聴こえます。 ・モーツァルト:ディヴェルティメント(D-dur) K.136 第一楽章~32小節(Vn1) 一拍目はAなのですが、何だかFisのほうが響きがきれいです。勿論、演奏家はテキスト(楽譜)に添って忠実に演奏するのは大前提なのですが、過去私が聴いたこの曲の膨大なレコードやCDの中にあえて意図的?にFisに換えて演奏したものもありました。(確か、ルツェルン祝祭合奏団・・・?)まあ、何の根拠も無く(単に聴衆受けする、聴きやすく=俗っぽく?)原典を勝手にいじる(変える)のはもってのほか!ルール違反で絶対にやってはいけないことなのですが。(この場合、指揮者や演奏家のそれなりの考え、自論に基づいてのことかも知れません) いずれにしても、それぞれ件の箇所で違和感のある響きがして一瞬ギョ!?と我が耳を疑いたくなるのは事実です。 それまで曲の進行・流れが自然にいっていたのにあえて和声学的に違和感のある音を置く・・・うーん、ここのところ一体どうなんでしょうね? 音楽史的には確かにバロックまでは教会旋法等を用い、このような音型のパターンでは意図的にナチュラルを付けてあえて響きを変えたりしますね。 (そうすることにより教会の伽藍=空間にそれまで流れていたのとは違う違和感ある響きがして一種独特な雰囲気を作る・・・とでも) また、モーツァルトなどは作曲家自身がこのようにあえて意図的にハモらない?(=不協和音、目立つ!)音をポイント的に置くことでより曲全体の演奏効果をより上げることに貢献しているといったらいいのか・・・(そこまで深く?真剣な考えは無くてちょっとその時の気分で?ナチュラルを付けたり、和声的にハモらない音を置いてみただけ、彼一流のお遊び?)現に彼のピアノ協奏曲(Nr.26「戴冠式」~第一楽章や2台のピアノの為の協奏曲K.365~第二楽章)の中などにも各2箇所ずつ表れます。これらは当時としては勿論、斬新・革新的であったのは言うまでもなく、現代の前衛的ジャズ・ピアノの響きの中にもことごとく表れるのはモーツァルトの如何に超天才ぶりかをあらためて証明するに十分です・・・ 絵画でも調和のとれたきれいな響きの色あいの中に赤や黄などの原色がチラッと見えることにより(=不協和音)、より画面全体がいきいきとしてきてメリハリやリズム、躍動感が生まれて効果的な場合があります。印象派や現代美術等では顕著ですが、意外にも古典絵画の厳格な様式の中にも描く画家によってはこういった技法はちょくちょく見られます。面白いですね。 如何でしょうか。音楽は我々の感性にリアルタイムで直接語りかけて(流れて)くるものでしょうし、時には楽典や様式といった極めてアカデミック、画一的、型にはまったパターンを頑なに守らなくても柔軟性のある発想やその時の気分?で作品を(面白く)完成させるのもまた一興なのでは?などとも思ったりします・・・
お礼
たくさんの実例も下さって、ありがとうございます。 なるほど確かに、パターンを頑なに守りすぎる行為は、音楽の可能性の芽を摘むことにもなりかねませんよね…。 と言いつつ、せっかく実例をいただいたので、私の分かる範囲で頑なな分析をさせて頂きますと(笑) ・パッヘルベル:カノン ここはト長調への(一瞬の)転調で、Cは次なるHに対する導音(ルートGにおけるIV→IIIの導音)と考えられます。もしここがCisだったら、Gリディアンの響きが生まれてしまい、余計に奇異な感じになってしまいます。もしCisにするなら、続く音はHではなくDにすべきだと思います。(もちろんそういうフレーズになるならば、前も変えなければなりませんが) 今回のシベリウスの場合は、この辺り一帯が旋律的短音階のニ短調で構成されていると見るのが妥当で、仮にもし一瞬の転調あるいはモードチェンジと見るならば、それ相応の展開が後に続いてしかるべきです。それなのに、Cは解消されぬまま主音Dに達してしまいます。Cを出す以上Cisを経過しなければなりません。なお、その後に、Cisとは言わずせめてHが出てくれたら、IV→IIIの導音(ルートGとして)と見ることができ、ここでDドリアンにモードチェンジしたという解釈が成立します。(この曲の冒頭は、この手法で処理しており、すばらしい効果が上がっています) ・モーツァルト:ディヴェルティメント 間違ってたらすみませんが、ここのことでしょうか? http://rfvg7u8.dip.jp/project_data_76984hilw/Mozart136_.jpg この譜面ではFisになっています。私が今まで聞いた音源も、全てFisでした。 Fis→Eisの後なので、刺繍音進行上、Fisが正しいと思います。Aだとしたらそれこそ写譜ミスかと…。1段違いの写譜ミスはよくあるものですし。もしここがAだったら、別に質問コーナーを設けます(笑) 長々と堅苦しい考察を述べてしまいましたが、ふだん私は、どちらかというとジャズやクラブミュージックを愛聴しています(笑)
- tattom55
- ベストアンサー率52% (194/367)
民族楽派のシベリウスらしいメロディじゃないですか。 実際はどうか今確認できないのですが、この旋律を支える和声(オケの楽器群によって成立している和音)を見る必要があります。この旋律に普通の和声を付けると1小節目の前半2拍はニ短調の主和音(I)、後半2拍は属和音(V)、2小節目の前半も属和音となりむしろ奇異な印象を与えてしまいます。ですからこの旋律自体を普通の長調と短調だけの世界で見ることがおかしいと考えます。フィンランドの民謡を自作に取り入れたシベリウスのことですから音階は長調と短調だけで作曲しているわけではありません。短調の導音を半音下げた音階は自然短音階ですがこの場合は各地の民謡に多く見られるモードと見る方がいいでしょう。モードとは教会旋法と呼ばれる音階のことで、長調・短調が生まれる以前に使われていたものです。現在の長調と短調はこの少なくても12種類あったモードの中の二つが変化して成立したものです。作曲家たちはただ自国の民謡を取り入れたわけではなく二つの調の縛られた世界からの脱却を試みてモードの使用を始めたわけです。バッハの作品にあるモードは古い教会音楽を素材として扱ってもいることから昔の名残とも言えるけど、ブラームスのそれは明らかに古い壁を乗り越えるためにハンガリーなどの民謡から得たヒントを活用したのだと思います。ちなみにモードの使用は今やごくごく普通で新鮮さを補う重要な素材として扱われています。
お礼
詳細な分析ありがとうございます。 民族楽派であるという視点・和声やモードの解釈など、記載いただいた内容に、全く異論はございません。 でも、それならば今度は、赤丸以外を、そういった民族楽派的モードを使用せずに旋律的短音階で処理した理由が見つからないんです…。 もちろん、全編をひとつの方法論で作る必要があるとは思いません。でも、1拍目の中にあるド#にも、ナチュラルを付ける選択肢が出てくるのは事実です。それを避けた理由が知りたくなります…。 バックの譜面が見つかったので、参考までにアップさせていただきます。 http://rfvg7u8.dip.jp/project_data_76984hilw/sibelius_vn_2.jpg 問題のVの第3音は、全てソロパートに委ねられているので、バックからの判断はできませんねえ…
- pomocc
- ベストアンサー率42% (142/333)
導音からあえてシャープをとることで、一瞬、はらっと和音の響きを変えたて、そこだけ別の雰囲気をかもし出しているのでしょう。 写譜ミスではなく意図的にナチュラルをつけたのだと思います。 この場面であそこにナチュラルをつけたシベリウスはさすが天才です。
お礼
もちろん「はらっと和音の響き」という視点は重要だと思います。特にドビュッシーなどはそういった響きへの嗜好により音楽を構築したりするわけですが、シベリウスの場合、前期・中期はあくまでチャイコフスキー・ワーグナーの範囲に収まっており、そういったスタイルで曲を書くとは思えないのです。響きより、機能を重視するはずです。旋律的に考えて、上昇系において導音がナチュラルすることはこのスタイルではなかなか考えにくいですし、和声的に見ても、この時代に、1小節の前半と後半で、旋律的短音階から自然短音階へのモードチェンジして次の小節でまた旋律的短音階に戻る(つまり、機能的に無駄な寄り道)ようなスタイルは例がありません。 もちろん、シベリウスはこの曲の直後、ワグネリズムの限界を感じてドビュッシーやラヴェルのスタイルへ大転換していくわけで、その萌芽が見られているのかもしれませんが、この長い楽曲のうち、ほんの1,2小節だけにそういう処理を施せば、楽曲の完成度は当然下がるわけで、もし思いついてもまともな作曲家なら避けるはずなんです。 そういう観点から、いまだに、頭を悩ませています。 いろいろ考える契機を下さって、ありがとうございました。
面白い着眼点ですね。 ナチュラル有りの場合,無しの場合を試して比べてみました。 ナチュラル無しの場合,普通にサラッと流れてしまう感じがあります。 1小節間の内面的な性格を記号で表すなら,A-A´-A-A´といように Aの後を,Aと同じ性格のA´が着いてきて繰り返すような感じがします。 それに対してナチュラル有りの方は,A-B-A-Bというように, 内面的な葛藤,あるいは,問いかけがあるように感じます。 ナチュラルにすることで,力強く応答を要求しているようにも感じ, AとBで対話が成り立っているようにも思えます。 ここでナチュラルを付けたシベリウスはすごいと思いました。 ミスではなく,意図的にナチュラルが付けられていると思います。
お礼
対話という観点による解釈は面白いですね。 ありがとうございました。
お礼
申し訳ございません、アップした譜面の左端が切れておりました。 ここは実はヘ音記号です。なので、 シシドド|レッレードレ|ミミファファ|ドッドーレミ|・・・・ ではなく レレミミ|ファッファーミファ|ソソララ|ミッミーファソ で、ソロに対し旋律的カブリはありません。よって、#をつけることも全く問題ないですし、また単純な短音階で、旋法的・民族音楽的ではありません。すみませんでした。 西ヨーロッパ的「お約束」とシベリウス的音楽語法が同時進行している、という視点は重要ですね。 ただ、こういった形での同時進行・同居は無いのではないかと思っているんです。 たとえば日本画と西洋の油絵の融合を考えてみます。 見返り美人が西洋風の帽子をかぶって、そこだけが油絵の具で処理されているということにはならないと思うんです。コラージュでもない限り。 どちらかというと、日本画独特の構図を利用して、油絵の具で全てを描き上げる、という形で、まず内的融合を図ってから全体としてアウトプットすると思うんです。 ANo.4さんへのお礼にも書かせて頂いた内容なんですが、「導音進行の機能性を守りつつ、従来に例の少ない旋法を取り入れる」、つまり、あくまで、従来の機能和声の書法の延長線上に、近代的教会旋法を持ち込む、という形になると思うのです。 メドレー的・コラージュ的に同居させるというのは考えにくいです。 また、ANo.3さんも、シベリウスという存在を融合的・過渡的に解釈されており、そういった理由でドの音は間違っていないと言っておられるんですが、融合・過渡が、このような形であらわれるのは不自然だという感じは、いまだ私の中で払拭されてません…