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なぜキリスト教が愛の宗教といえるのか?

こんにちは。キリスト教について勉強し始めたばかりのものです。 今,旧約聖書を読んでいるのですが,そこで書かれている神の所業がどうしても気に食わないのです。 というのも,神は自分の意に沿わない民を殺しまくりますよね?ノアの箱舟だって,信心深いノア以外は洪水で殺してしまいます。 あと,「殺すなかれ」と十戒で命じておきながら,イスラエルの民が他民族と戦争するのは容認しているし,時には勝利に加担したりしています。 これを読む限り,キリスト教が愛の宗教だと言われていることがどうも胡散臭く思えてくるのです。神が人を分け隔てなく愛する愛の宗教なら,人間同士の殺し合いを容認することはおろか,神自身が人を殺すこともあってはならないのではないでしょうか? なんでキリスト教の神はこんな身勝手なんですか?また,クリスチャンはこれを唯一絶対の神と信じているわけですよね?だとすればこんな身勝手な神およびその御子であるイエス・キリストを崇拝する宗教が「愛の宗教」だとなぜいえるのでしょうか? どなたか説明をよろしくお願いいたします。

みんなの回答

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.6

キリスト教を学ぶのに、旧約聖書から入るのは邪道です。 まず新約聖書から入ってください。 キリスト教にとって、旧約聖書は、神話の扱いです。 福音派以外のキリスト教徒にとって、旧約聖書は無くてもかまわない存在です。 (福音派は、歴史としてとらえていますが) 現在の神道で、古事記や日本書紀が、神話としてしか扱われないのと全く同じ事です。 ところが、キリスト教に無知な人ほど、旧約聖書から入ってしまい、本来のキリスト教から離れてしまうのです。 旧約聖書は、古い契約であり、キリストによって改めて契約しなおされたのが新約聖書なのです。 改定前の古い契約よりも、改定後の新しい契約を学んでください。

wonka1981
質問者

お礼

新約聖書はすでに読みました。 しかし,ユダヤ人の選民意識や他の民族に対する差別意識,信じないものに対する裁き,神への絶対的な帰依の強要などなど,「これが愛なのか」と疑問に感じる所が多くて,正直がっかりしました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

なぜキリスト教が愛の宗教といえるのか? [今,旧約聖書を読んでいるのですが] [旧約聖書]はユダヤ教の部分ですね。[新約聖書]がイエス教の部分ですね。[旧約聖書]には何人かの神々が出てきますが、個性の強い民族神に操られたのがユダヤ教ですね。生贄を要求する神ですね。愛の神ではないですね。イエスの教えは愛の教えですから愛の神なんですよ。旧約聖書から愛の神を読み取ることは難しいですよね。キリスト教はイエス教とユダヤ教が混在しているのでたたり神と愛の神が区別されずに混在しているのですね。だから疑問が出るのは当然のことです、矛盾がいたるところにあるからですね。キリスト教国が戦争好きなのもユダヤのたたり神の影響ですね。イエスの教えを純粋に拾い出すとイエスは愛の神でありイエスを指導した父と呼ばれる神、人間の創造主も愛の神であることがわかります。神と呼ばれる個性もたくさんあるということに気がつけば解ける疑問ですね。

noname#80116
noname#80116
回答No.4

 蚕は繭を紡ぎます。けれども蛹は蝶に変態します。  繭から出て行って暴れる場合もあるでしょうし 個人としてその行き先の土地で活躍する人もいるでしょう。  蛹も 蛹の時代には まさか自分が空を飛ぶ蝶になるとは知らなかったかも知れない。キャベツの葉を猛烈に食べるだけでもう満足だったかも知れないし あるいは さらに自分の行く末を瞑想しこれを感知して その将来に思いを馳せていたかも知れない。  キリスト・イエスの十字架上の死と物語としてのかれのその後の復活とを 世界の人びとに伝え尽くそうとしたパウロという人は その改名前のサウロの時代には このイエス派の人びとを ユダヤの教えの伝統に従って 弾圧し殺そうとしていました。  旧約聖書の『詩篇』で 噂されるところによるとイスラエルの王ダヴィデは うたっています。    なにゆえ、国々は騒ぎ立ち 人々はむなしく声をあげるのか。    なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して 主に逆らい、   主の油注がれた方に逆らうのか     「我らは、枷をはずし 縄を切って投げ捨てよう」と。    天を王座とする方は笑い 主は彼らを嘲り 憤って、恐怖に落とし  怒って、彼らに宣言される。     「聖なる山シオンで わたしは自ら、王を即位させた。」      主の定められたところに従ってわたしは述べよう。    主はわたしに告げられた。     「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。     求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし      地の果てまで、お前の領土とする。     お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く。」    すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。    畏れ敬って、主に仕え おののきつつ、喜び躍れ。      (『詩編』第2章:第1節-第11節)  この歌の内容として 注意すべき事項を二点指摘して 情況把握に資したいと思います。 (1) 個人の信仰ということが それとして 取り出されるであろうし それと 集団としての宗教とは 基本的に別だということ。  中ほどの句《お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。》――これは ふつうの信仰の問題です。純然たる個人の良心と信教またその自由・したがってその自由な自己表現のことに属します。いわば《わたし》の《内面》つまり こころの問題におさまります。外へ他者へと広がりますが 中核としては 個人が何ものかを信じるという内面行為とその言語表現のうちに それとして完結したものです。  しかも ここで《わたし》と自称しているのは 《創造主》と言われるヤハウェーなる神のことですから 《生んだ者が〈生んだよ〉と言っているその声を聞いた》と述べているだけです。実質的に同語反復つまり ダヴィデの自己の存在にかんする自同律のことです。つまり そういう自己認識もしくは自己還帰としての信条であるに過ぎないのですから これは 個人の信仰という自由領域におさまる問題です。  けれども この信仰が 次の事項と大いにかかわって 集団としては 変貌し あたかも八紘一宇のごとく 外へ出て行った。もしくは 外に対しては 《愛》を知らなかった。 (2) 古代では 部族ないし民族としての集団が じつは じつに 個人と一体であったと考えられるということ。  古代には 民族としての――かんたんには言葉の同一による人びとの集団としての――まとまりが 《繭》として きわめて強固でした。そういう掟でした。一人の人間ダヴィデは ユダヤ民族全体と同じであり わが民族はわたし一人と同じ存在であったと言います。  現代においてさえ 無人島ひとつでも わが民族の固有の領土であり そのわが民族とわたしとは 一体ですと主張して止みません。その個人と民族ないし国との一体を ひとかけらも疑っていない場合があります。  ということで あとは ご賢察あるいはさらなる質疑応答にゆだねたいと思いますが いかがでしょうか。わたしは 宗教解体論者ですが あえて護教論を述べてみました。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

私が思うにには、複数の信仰が平行して走っているように思うんですね。(融合ではない) 伝承では、神はアダムとイヴを楽園から追い出した後、人間が生命の木の実を食べないよう、エデンの四隅にケルビム(ケルブの複数形)を置き守らせた  とある。 ケルビムは、炎の蛇ともされ、「聖なるかな 聖なるかな」と炎の信仰をもって神を讃えている とされる。 神獣ケルビムを倒さない限り、生命の木の実を食べれなくなってしまったわけです。 (ということは、それまでは食べていたってわけですね。) 神は呪いをかけた。 まず 蛇を呪って地上を這うものとした。 (ケルビムは地上に下ったってことでしょうか? じゃあ エデンは誰が守っているの? ケルビムの裏切りで、ケルビムも呪われたのでしょうか) 神はイヴを呪って、生命を誕生させるものにした。 神はアダマ(地上) もしくはアダムを呪い、額に汗して労働しないと、食べ物を得られないようにした。 こうやって人間の祖を神は呪って不幸にしていたが、ノアだけは獣と同じだったので、愛したとある。 つまり、子供のようで無邪気なもので無恥で無知だったので、神はノアを愛したってわけです。 そうすると、神は知恵のあるものを嫌い、知恵の無いものを愛するような生き物だと思えますね。 (なんか 裸の王様? って感じですが、将来自分の地位を脅かす畏れのあるものは、見つけ次第処刑するってわけです。) >あと,「殺すなかれ」と十戒で命じておきながら,イスラエルの民が他民族と戦争するのは容認しているし,時には勝利に加担したりしています。 これは、古代ヘブライ語には、禁止+命令形は無かったので、古代ヘブライ語を現代日本語に訳すると、ニュアンス的には「私の民が私の民を殺すなんてことがあるでしょうか」という感じ。 思い出してください。彼らは神から選ばれた民としていたってことを。 つまり、神から選ばれた民の集合体という限定領域において、殺し合いをしない、もししたら、神の民ではなくなる という意味だと思います。 つまり、イスラエル人同士で殺しをした場合、神の民の集団から永遠に追放されるってわけです。 >イスラエルの民が他民族と戦争するのは容認しているし,時には勝利に加担したりしています。 これは、、、イスラエル人が、既にいた民族を殺して土地を奪ったというエピソードですよね。 が、確か、、、、ノアの呪いだったと思います。 えっと正確には覚えていませんが、確かノアは飲んだくれてすっぽんぽんいなってイビキかいて寝ていたところを3人の息子に笑われ、そのうちの二人に呪いをかけたんです。 そのノアに呪いをかけられた子孫が、後にイスラエル人が殺して土地を奪ったというときに出てくる人々だったような。 それに、神の民同士では殺し合いは駄目ですが、神の民じゃない民族に対して情け容赦などいらない ってのが、この神に選ばれた民の考え。 別の神の民ですし。 そっちの神に、攻めてきたイスラエル人を追い払ってください と頼めばいいってわけですね。 八百万の神々がおり、イスラエル人の神意外にも沢山神はいるとイスラエル人は他に神の存在を認定していたんです。 一神教というより、唯一神教。 >時には勝利に加担したりしています。 確かモーセが腕を上げているとき、優勢になり、疲れて腕を下げたとき、劣性になった、それでアロンだったかが、モーセの腕を支えて上げ続け勝利に導いた というくだりがあったと思いますが、恐らくモーセの杖 つまり 蛇が関係していると思います。 だから、腕を上げている時って意味は、知恵を出せたとき優勢だったって意味じゃないかと。 >これを読む限り,キリスト教が愛の宗教だと言われていることがどうも胡散臭く思えてくるのです。 私もキリスト教が愛の宗教だとされるが、よくその意味がわかりません。 イスラエル人は自分達を沢山ある民族の中から、ヤコブの子孫を選び、ヤコブにイスラエルという名前を与え、彼らの子孫をイスラエルの子らとして祝福 つまり 子孫繁栄をさせた としています。 ところが、キリスト教はイスラエルの子ら以外の自分達も神は選んだと改定している。 いつ神はそんなことを言ったのか??? どこにもそんなこと聖書には書いてないし、イエスも言ってなど い な い。 イエスは「異邦人に家によらず、イスラエルの家に寄れ」とは言った。 誰にか。 自分の弟子達に。 その弟子達とは何者か? イスラエルの子ら。 しかも、恐らくですが(私の推測)、彼らは12支族を宗教的に指導していた、レビ人だと思います。 かつて、イスラエル王国は、1つだった。 それがユダとベニアミン族が、宗教的な意見の対立から、イスラエル王国から離脱して、独自の国家を作った。 北と南にイスラエルの子らは分かれて住むことになったわけです。 後に、南の人たちはユダヤ人 と呼ばれることになった。 北はアッシリアに連れ去られ、南はバビロニアに連れ去られ、パレスチナ各地に散らばった。 その前も、後も エジプトやギリシャ方面にディアスポラしてイスラエルの子らは住むことになった。 そのイスラエルの子らを、神の民としての意識を目覚めさせ、神に帰依する運動をしていたのが、イエスのモデルになった人だったのではないか と、私は推測するんですね。 だから 「異邦人の家に寄らず、イスラエルの家に寄れ」と12支族の宗教的リーダーである12使徒に言ったのではないか と。 ところが、異邦人を愛せよ をイスラエルの子ら以外を愛せよと、イエスの言った意味を誤解してしまったから、神は新しく契約を交わして、その相手は全人類じゃ など ふざけたことを言うようんじなったのではないか と。 良き友人 サマリア人。 はい、イスラエルの子らです。 同じ民族ですから、異端だと軽蔑せず仲良くしましょう。 ローマ人はイスラエルの子らじゃありません。 日本人はイスラエルの子らじゃありません。 でもアダムとイヴの子孫じゃないか? わかりません。 アダムとイヴの遺伝子が見つからない限りわかりませんし、全人類の祖はアフリカのイヴに繋がっている とされるが、そのイヴとつながっていない人も沢山いるわけだし。 なにより、ヤコブの子が選ばれたとされるのであって、それ以外、例えばヘロデ大王の祖先のエサウは、双子のヤコブに長子権を取られたので、祝福されておらず、ヤコブが祝福されたので、繁栄したとされているのだから。 このように、どっかがズレてさらにそのズレでズレてってなって、制限領域が、いつのまにか地球全体がイスラエル人の神が支配する地域だと、勝手に解釈されてしまったんじゃないかと。 誰が? 一部の宗教が世界制覇のために強引に。 まず、手始めに、全財産を教会に寄付しないと、殺されると脅して、実際全財産を寄付しなかった信者夫婦を殺して財産を奪った。 もちろん、その頃ローマは神がやったなど信じていませんので、ペトロらは殺人罪で投獄されています。 パウロは改心してナザレ派に属したとされるが、ナザレ派のエルサレム教会の初代リーダーヤコブの殺害を量り、やはり投獄されています。 『私の民は、私の民を殺さない』 殺した場合は、私の民ではなくなる ってわけで、ペトロはもうイスラエルの子じゃないわけです。 パウロにいたっては、「我が同胞ヘロデオンの安否はいかに」と手紙に書いており、ヘロデオン つまり ヘロデ家の人間ってことで、エサウが祖。 つまり彼はイスラエルの神が選んだイスラエル人じゃあない。 エサウの子孫が、イスラエルの子孫から長子権を奪われた逆恨みからやった行為かもしれないが、エサウはレンズ豆とひきかえに長子権を売薬したのだから、権利は放棄したわけで、いまさら、やっぱり返せと言われても、時間は遡れないし、神の決定を否定することは、神への反逆にほかならない。 さて、神への反逆分子はその後、勝手に神は新しき契約を交わしたと言い通し、神の元に金は返すべきだと奪う奪う。 金さえ払えば、神の愛は得られるとうそぶき、金襴豪華なケバい豪邸を築きまくる。 豪邸を建てるために、もっと金がいる。 異教徒に魔女だと濡れ衣を着せ、殺して財産没収。 まだ足らない もっと金が欲しい。 教皇たちは金の亡者となり、各地の権力者をキリスト教徒にして、特権を与えたが、その代償に全財産没収。 拝金宗教ですねぇ。。。。 金が愛とは・・・・。 金こそ神ねぇ・・・・。 なんで金を神と崇拝する人が、ユダヤ聖書使うのでしょうねぇ。 意味ないですよね。 動物に聖書渡すようなもの、ネコに小判の逆バージョン。 確かにキリスト教は人々が知恵を持つことを自分達の権力に対する最大の恐怖だと感じ、図書館を閉鎖し、人々から知恵を奪いました。 支配階級にいる人は知恵を蓄積できましたが、うっかりキリスト教の教えと違うことを知ってしまったら、異端審問により処刑されていましたから、逆らわず地下潜伏して、こっそり研究をすることになった。 地上は愛の宗教を布教するとうそぶく悪魔がノシノシ歩いているので、地上に出られなかったわけですね。 それで、表向きは教会の悪事を告発できなかったが、タロットカードで遠まわしに教会批判をしたりしていた。 とまあ きりありませんが、恐怖政治下において、やりたい放題だったわけで、自由を奪われた人々は、愛の宗教です と言わないと処刑されていたので、本当のことを言えず、知恵を持つものはおびえて暮らさざるくらさざるを得なかったわけですよ。 逆に知恵を持つことを奪われたものは、教会の言うことを真実だと思うしか、無かったわけです。 選べなかった そういう時代が1000年以上も続いたわけですよ。 イエスが「異邦人である全人類を愛せよ」といったと嘘うわれて、自分達も天国に行ける可能性ができた イエス様さまだと、勘違いさせられ、入信して金を悪魔に貢いで、その金が世界紛争に使われ、人が死んでいっているわけですよ。 陰謀だと言われてきたが、P2事件により、でっちあげじゃないと暴露された。 信者の寄付金が、こともあろうことか、ポルノや麻薬企業の株の納入に当てられていた。 つまり信者はこの世にポルノと麻薬の繁栄を促進していたってわけですよ。 その信者が我々は愛の宗教ですだ? 笑わせるな! ですよね。 悪はお前そのものだ! この無知のノア! なわけです。 賢かったですね、教会は信者が馬鹿で射続けるように教育したおかげで、異邦人が暴露するまで馬鹿であることを気づけなかった。 どんどんヨーロッパからキリスト教徒が消えていく。 でも、プロテスタントは「カトリックはキリスト教じゃありません 我々とは無関係です。我々こそ真実の教会です。」などそれぞれが言っている。 ほーー 祖先 イスラエル人だったんですかぁ どう見ても 純粋なアジア人に見えますけど、、、、。 血が何度も混ざったけど、10代前くらいまではイスラエル人だった? ほーー でも 神を愛していないですよね? 律法守ることが神に対する愛ですけど、やってます? やってなかったら神を愛していないってわけですけど・・・・。 とまあ、表向きの作られた神の愛と、元の意味と違うんですね。 表向きの神の愛は、キリスト教側が「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」でも 実際殴られたら殺す!なわけです。 口で言うことと実際やることに矛盾があっても、「また 人殺しましたが、神の国の実現のためですので正義の殺しです」とうそぶけるわけです。 試してみたらどうですか? 信者の頬を思いっきり殴ってみる。 血相買えたらニセモノだとわかりますから。 尚、イエスが言ったとされる「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」はもともとイエスよりずっと前からあったクムラン宗団の教義の1つで、暴力を受容しろ という意味じゃあない。

noname#78143
noname#78143
回答No.2

人間も病気のかかった家畜を涙ながらに屠殺しています。 神様が人間を家畜と同じ目線で捉えているならありえる話です。 宗教自体ただ受け入れるだけで、疑問を持ち答えを出してもらう ようなものではないと私は思うのですが。 それと、旧約聖書はユダヤ教の経典でしょう? キリスト教はユダヤ教を批判するところから出発しているのだから あなたが気に入らないのは当然かも知れませんね。 ちなみに、旧約はダビデ王の家系とメシアの降臨の記載があるため キリスト教の経典の一部として用いる背景があります。

noname#58770
noname#58770
回答No.1

えーと。 そういうことにしたからです。 モーセと一神教という フロイト(彼はユダヤ人ですので)が書いた本があるのですが その中で、モーセは実はエジプト人で、 ヤハウェのもとネタは火山の神という考察がされています。 もっともだなぁと思います。 ニーチェは道徳の系譜で キリスト教を、ルサンチマンの産物としています。 つまり、エジプトから祭司とともに逃亡して 火山の神を祭り上げて作った宗教に 実際の戦争では勝つことのできなかった弱い民族が 思想的に勝利をおさめるべく作り上げた価値転換の 代物。それがキリスト教です。 神を殺して、自分たちを救うという狂気。 というわけで、キリスト教が 愛の宗教というのは嘘です。