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イスラエルの歴史について

ウィキペディアのイスラエルの歴史の項目を読んでいると2世紀ごろにゴラン高原のメイローンにユダヤ人が住み始める、11世紀以降にガザのユダヤ人地区が繁栄する、といったイスラエルにおけるユダヤ人についての記述があります。 ローマ帝国との戦争以降、多くのユダヤ人はヨーロッパ各地に離散していったとされていますが、これらの人々は、そのまま残った少数のユダヤ人の子孫のことを指しているんでしょうか。

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回答No.6

ディアスポラの説明はNo.5の方の説明が正しいです。 ディアスポラ・ユダヤ人といっても、大半は、故地を強制追放されたのではなく、ユダヤ戦争(ローマ帝国との抵抗戦争)よりずっと前から中東~地中海沿岸にユダヤ人がかなりの数で住んでいたことが知られています。世界各地にチャイナタウンを作っている華僑のようなものを想像すればよいのです。 (なお、ディアスポラ・ユダヤ人の人口は古代としてはひじょうに大きかったので、この源がすべてパレスチナ(イスラエル)の「本来の」ユダヤ人であると考えるのは学術上難しいようです。後者の人口にくらべ、前者(パレスチナ以外のユダヤ人口)が多すぎて計算が合わない。古代、パレスチナ以外の諸都市でユダヤ教への改宗者がかなりあって、それら改宗者も「ユダヤ人」となったものと考える学説がおそらくもっとも適当な説明だと思われます。) >ローマ帝国との戦争以降、多くのユダヤ人はヨーロッパ各地に離散していったとされていますが まず、敗戦後追放されたのは、エルサレムやその近くにいたユダヤ人だけ、しかも、おそらく全員ではなかった思われます。 パレスチナ地方でも農村部の住民などはかなりそのまま住み続けた人達も多かったらしい。 おそらくその子孫はその後色々混血や文化・宗教の変化を蒙り、その血はいまのパレスチナ・アラブ人の農民につながっていると考えるのが妥当です。農民というのは土地に結びついているものです。パレスチナにはその後、大きな民族移動があったという歴史記録もありません。(それを考えれば、今のイスラエル~パレスチナ紛争は大きな歴史の皮肉です。) あと、古代のディアスポラ・ユダヤ人の行き先は、ヨーロッパよりむしろ、シリア、バビロニア、ペルシャなどの東方、エジプトと北アフリカ、東地中海岸などが主ではないかと思います。 >2世紀ごろにゴラン高原のメイローンにユダヤ人が住み始める、 >11世紀以降にガザのユダヤ人地区が繁栄する 古代~中世のユダヤ民族の歴史は確実な歴史記録が少なくて謎が多いですが、上のような記述は別に不思議ではないと思います。 (ガザなどは地理的に、古代においてはパレスチナに含まれていたのでしょうか?ちょっと離れてますね。)

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noname#58790
noname#58790
回答No.7
  • pyon1956
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回答No.5

そもそも、ユダヤ戦争によって、全ユダヤ人がパレスチナからいなくなった、というのは正しくないようです。 実際ディアスボラ、という言葉はそれ以前からも使われており、この場合ヘレニズム大都市におけるユダヤ人居住区ないしユダヤ人集団そのものをさしていたようです。 ユダヤ戦争で破壊されたのはエルサレムですが、当時とて、全イスラエル領域からユダヤ人が追放されたというわけではありません。 当時のローマによる支配、というものは基本的には都市支配なんで、これには3つの場合があったようです。 つまり、既存の都市を利用する場合、既存の都市を破壊してそのあとに植民市を作る場合、そしてまったく新しい都市を作る場合です。 エルサレムの場合は破壊されたあと、ローマの軍団が常駐したわけですから2番目のケースにあたるでしょう。 しかしながら、都市エルサレムの支配下にあった周辺の村や周辺住民が追放されたわけではありません。 もっとも第2次ユダヤ戦争で完全な破壊があったとされています。しかしその後も「ユダヤ暦の廃止が命じられ、ユダヤ教指導者たちは殺害された。律法の書物は神殿の丘に廃棄され、埋められた」ということは、ユダヤ人達はこのローマ支配地域にすんでいた、という事であり、また、これはあくまでエルサレム周辺の話です。 ましてユダヤ戦争の後も前も、地中海沿岸東部の大都市にはかなり多くのユダヤ人が住んでいたようです。 あくまでローマ人が追放・迫害したのはエルサレムに以前から住んでいた人々であって、その後全くユダヤ人がエルサレム(最早別の都市ですが)に帰還、ないし移民しなかった、というわけではありません。 要は離散(ディアスボラ)をヨーロッパ各地に散った、とのみ解釈するからいけないわけで、それ以前からエジプトやリビアの辺り、またシリアなどにも大量のユダヤ人が住んでいました。 こうした人々のなかには、やがてまたパレスチナに住んだ人もあったと思われます。 おそらくかなりの部分は後にイスラームに改宗し、そのまたかなりの部分は実際に人種的にもアラブ化していったでしょう。しかしまたそのままユダヤ教徒・ユダヤ人であった部分もかなりあったようです。

noname#58790
noname#58790
回答No.4

これおかしくね? ちょっとこの記述は専門家様に是非を問うべきだと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%83%A0%E7%8E%8B%E5%9B%BD 十字軍は、ユダヤ教を包容し、国家を与えるのか? 利害が一致した行為なんかい? 専門家さん?

  • kigurumi
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回答No.3

ユダヤ人と呼ばれるようになったのは、一体いつごろなのか定かではありませんが、恐らくユデアと呼ばれる地域だったか国家の名前からきていると思うんですね。 詳しく調べていませんが、ローマの植民地となり、エルサレム周辺の地域はユデアと呼ばれていたようです。 恐らくユダ王国から来ていると思えます。 アブラ人もユダヤ人もアブラハムを祖としており、アブラハムの子イサクの子供 ヤコブの子孫がイスラエル人。 (ヤコブがイスラエルという名前の改名している) だから12支族+1支族がイスラエル人。 ヘロデ大王は、ヤコブの兄の子孫なので、イスラエル人ではなかった。 やはりアブラハムを祖先に持つのですが、イスラエル(元ヤコブ)の子孫じゃあない。 12+1支族はかつて一つのイスラエル王国というところに一緒に住んでいたのですが、この時代においても、国外に多くのイスラエル人は住んでいたようです。 ローマ帝国の属州となったときも、ユデア国?の8倍くらい(正確な数字は忘れました)のイスラエル人がユデア以外の地域に住んでいたそうです。 だからユダヤ戦争により離散した人の8倍くらいは、既にユデアに住んでいなかったことになります。 どうして本国より外の方に多くのイスラエル人が住んでいたかというと、弱小集団だったので、何度も捕囚され、他国の奴隷となったり、連れていかれたりしたんです。 開放された後も、わずかしか元の地域に帰ってこなかったようです。 そういうわけで、ユダヤ戦争が起こる前より、本国の何倍ものユダヤ人 というか イスラエル人は、本国以外に既に住んでいたわけです。 ちなみに、、、、 よく言われるのがアシュケナジム系ユダヤ人は、ハザール帝国の末裔で、ユダヤ戦争の頃にユデアに住んでなどいなかった、ハザール帝国は政治的なものから国教をユダヤ教にしたのでユダヤ教徒になっただけで、イスラエル人じゃあない と言われていますが、彼らは外見は白人系ですが、イスラエルに住むユダヤ人と同じ、アラブ特有の遺伝子を持っているのだそうです。 つまり聖書通り祖先は同じだってわけです。 アブラハムの子供はイサクとイシュマルで、イサクの子供がヤコブ のちのイスラエル、イシュマルの子孫がアラブ人 となっている。 で、さらにユダヤ教の聖職者は世襲制で、厳格に今でもその神の指示を守っているらしく、遺伝子を調べるとアフリカの辺境のシナゴークにおいても、ラビはその系統の遺伝子なのだそうです。 つまりレビ人特有の遺伝子ってことでしょうか。 なお、アフリカの辺境の地にシナゴークがあるのは、ユダヤ戦争で離散したからじゃなく、もっとずっと前からアフリカに住んでいるのだと思えます。 モーセが自分の民族を率いてシオンの方に移住したと聖書には書いてありますが、彼の後についていかなかった人たちもいたでしょう。 確かにローマ帝国はエルサレムを包囲し、虐殺し、殺さなかった人々は各地に奴隷として売り飛ばしたようです。 ですが、それよりずっと前から、本国の何倍もの数のユダヤ人が既に各地に住んでいたので、ユダヤ戦争が原因でヨーロッパやアフリカ 中近東、アジアに住むことになったわけじゃないです。

  • tyr134
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回答No.2

イスラエル(ユダヤ民族)の歴史は非常に複雑であり、特に中世のユダヤ人の歴史については信頼できる「史料」もなかなか見つからず、「歴史的事実」を確定するのは非常に困難な歴史分野であるといえます。 参考程度に、有力な説を簡略的に書いてみます。 ローマ帝国との戦争(ユダヤ戦役)以後、エルサレムからユダヤ人が追放されたのは事実のようです。(ローマ側、ユダヤ側双方に史料がある) ただ、完全に追放されることになるのは135年に熱心党(ユダヤ人の反ローマ過激勢力)の反乱をハドリアヌス帝が鎮圧した時です。 これによって、エルサレムにはユダヤ人は住むことを許されなくなりました。 しかし、完全にイスラエルの地からいなくなったワケではなく、小さなユダヤ人のコミュニティーが存在していたようです。 キリスト教勢力が強くなる(ビザンティン帝国支配下)時代には、かなり制限されますが。(エルサレムに行くのは年に一回だけに制限されていましたが) その後、ペルシアの進行によって一時的に復興したり、イスラム教国家によって(イスラム教徒よりも不利な立場ではあるモノの)非イスラム教徒として権利を認められたり、十字軍によって弾圧を受けたり、、、、と、時代によってコミュニティーの盛衰はあったものの、存在自体はずっとあったようです。 >これらの人々は、そのまま残った少数のユダヤ人の子孫のことを指しているんでしょうか。 そのまま残ったユダヤ人の子孫であったり、他国に移住していたユダヤ人が戻ってきたりと色々です。 例えば、十字軍で弾圧を受けたと書きましたが、この十字軍によってキリスト教各国が巡礼のルートを開発したため、そのルートを辿ってヨーロッパに移住していたユダヤ人がイスラエルに流入したりしています。 もっとも栄えたのは、オスマン・トルコ支配下であったようです。 というのも、イスラム教は他の宗教にも寛大で、人頭税をはじめイスラム教徒に比べて不利な諸条件さえ我慢すれば、キリスト教徒もユダヤ教徒も関係なく比較的自由に暮らせたからです。 ただ、エルサレムだけはイスラム教の聖地でもあったため、多くのユダヤ人はイスラエル北部に住んでいたようです。 その後、オスマン・トルコの弱体化や、英国の委任統治時代などを経て、イスラエルの建国され今に至るという感じです。

参考URL:
http://www.ijournal.org/IsraelTimes/index.html
  • TEOS
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回答No.1

本を読んでいたら、第2次大戦後のイスラエルの建国に、ロスチャイルド財閥が大きく貢献したと記載が有りました。 戦前にロスチャイルド財閥はさまざまな事業に大成功して、莫大な資産を得たと有りますが、ヒットラーのユダヤ人の大量虐殺で、壊滅させられたと有りますが、英、仏、オーストリアなどさまざまな国に子孫が居たため 戦後に復興し、大きな力を得たと有ります。 きな臭い話ですが、戦争・鉱山、原子力が資本の元です。 ユダヤ系民族が経営する大きな会社はいっぱい有るみたいですね。 「デ・ビアス-ダイヤモンド」とかね!! スエズ動乱 オッペンハイマーで検索すると、イスラエルの近年の 歴史が出てくるかもね。 戦争関連になるかも。 参考にならなかったらゴメンネ!

pretty22
質問者

お礼

そういうことを聞いているわけではなくて・・言い方が悪かったかもしれません。 ローマへの反乱以降に多くのユダヤ人はヨーロッパ各地に離散していったとされています。 2世紀ごろにゴラン高原のメイローンにユダヤ人が住み始める、11世紀以降に、ガザのユダヤ人地区が繁栄する、という記述のなかのユダヤ人は、 どこかへ移住することなくそのまま住み続けた少数のユダヤ人の子孫なのでしょうか? ということです。

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