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【学内裁判制度~学校法廷】について
アルパチーノが主演した 【セント・オブ・ウーマン~夢の香り(1992)】 でも後半部分のメインシーンとなったのですが、 (映画では「原告」「被告」という法廷本来の 対置型ではなかったのですが) 校内処分という重要な事項に際し、あのような学校全体の 問題と捉え、全生徒公開の場で、法廷に準じた儀式が 行われている所も、おそらく映画同様、現実にあるのでしょう。 あの作品で出た儀式を再構築し直していじめ等の問題も 「告発状」等を挿入できる目安箱のようなものを生徒会室の 前に設置して、生徒会を中心として、(検察審査会のような) 起訴・不起訴を審議し、起訴相当と評決に至った場合は 全校生徒出席の「学内裁判」を開くというのは、いじめ問題の 撲滅につながるのではないでしょうか? もちろん、判決そのものには大きな責任も生じてくるので 裁判官の役目は校長がするとしても「裁判員制度」に準じた 「裁判員」を校内生徒から無作為に選び出す。 また、専門の地元の弁護士を一人サポートとしてつけ、 原告&被告ともども、弁護役として一人「保護者」か「他の身内」 を任命できる。 また公開裁判の趣旨でPTAを含めた各保護者の傍聴も自由。 そして、校長が「裁判員」の評決をもとに、校内処分という 「判決」を下す。もちろん、冤罪の可能性もあるので 控訴・上告制度という三審制を導入。 また、仮にいじめ問題が発生したとしても 「今度やったら、学内裁判にもちこむよ」と相手を脅せば 校内における良質な威嚇行為となり、いじめをする人も 必然的に減るような気が致します。 いじめ撲滅につながることを祈りつつ。 皆さんのご意見をお聞かせください。
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細かい話は抜きにします。 全ての問題が解決されるわけではありませんが、相当有効な手段だと思います。 問題点をあげるとすれば、 加害者側が、勝訴した時です。 加害者側(被告人)が校内でも優位な立場なわけですから、味方も多く証言も有利に得やすいでしょう。 加害者側に無罪判決が出てしまった時、 原告は無実の罪で訴えた事になります。となれば、学校中から総スカンを食らってしまいかねないでしょう。 アメリカの様に、それぞれの人格がしっかりと独立した国なら公正に行われるかもしれませんが、日本の気質では難しいかも知れません。 例え、苛められていた原告人が勝訴しても、学内問題が解決しそうにも思えません。 一方的に皆が迷惑がっている、暴力生徒・カツアゲ・薬の売買などならば、裁判制度は有効的に働くと思います。 また、その様な制度があるという事が、生徒へのプレッシャーになってイジメ抑止力にはなると思います。
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この制度は原告は非常に不利に感じませんかね。 人間は元々悪人。 校長は、事件がなければ無い方が良い。 担任も同じ。 無関係な人は関わり合いたくない。 裁判は1回で終らない。 原告、原告証人は関係者に知られてしまう。 たった3年間の付き合いで証拠集めや証人集め、裁判なんてやりたくない。 裁判さえなければ受験勉強に没頭できる。 被告は裁判中も普通に授業を受けられる。 告発状には大量の悪戯が含まれる。 この裁判は原告に非常に不利で危険。 こんなことが想定できる裁判を起こす人がいるんでしょうか。 原告は、虐められていて、助けが欲しいが、「自分を虐められているのを見て見ぬ振りをしている人達からどんな証言を得られるのだろう?」と考えてしまうことも考えられます。 しかも、自分が虐められている内容を思い返しながら、詳細に多くの人の前で語らなければなりませんね。 かなり辛いことではないでしょうか。 この仕組みは、授業の進捗への影響なども考慮して、学校とは全く別組織が裁判を担当する方が良いのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 システム上の大よそ投稿期限(投稿から2週間) が過ぎましたので、本日にて締め切らさせて 頂きます。 ご回答頂いた皆様に心から感謝致し、 重ねて深く御礼申し上げます。 「いじめ問題」は人間としての本質(性善説vs性悪説) という超ヘビーな問題も包含しているため、 今後も完全撲滅ということは不可能に近いでしょう。 ただ、少しでも人間として最も下品な側面が 少しでも減少することを心から祈る次第です。
- K29_2005
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私は前途の理由によってその恐怖感があんまり効果ないんじゃないのか、と思うわけです。 裁判だけの事で大いなる恐怖感や羞恥心というのはないと思いますよ。 また前途の通り、羞恥心と言う意味で言えば被害者側の方がよっぽど恥ずかしく、明らかにそっちの方がマイナスです。 つまり恐怖感を与えるからには、その後にある何かしらの処分を対象にしなければ難しいと思います。 実際裁判があっても闇金など陰湿な事件は大量にあるでしょう。 役に立つのは厳罰で、飲酒運転も厳罰前は適当にやってる人間が多かったけど、厳罰化によって相当減りました。 イジメをするリスクとして、裁判をする恐怖感・羞恥心と言うのはどうしても低すぎると思います。 むしろ裁判を行った際の羞恥心、裁判後の報復の恐怖感が被害者側の方のリスクとして付きまといます。 イジメも一種の麻薬的なものがあって、やってしまうと止められない、楽しいんです。 麻薬犯がどんなに逮捕されて罰を与えられても繰り返すように、ああいうのは相当な処分がなければ治りません。 裁判なんて起こせないだろう大半の被害者は徹底的にイジメられるのは変わらないと思います。 ヒステリックな人が悪口言われて裁判だと騒ぎ立てるくらいしか想像出来ません。 一部には実際裁判に頼る重度な被害者もいるかもしれませんが、その後報復を受けるんであれば何も変わらず、むしろイジメが激化するのではないですか? そうなると後輩にも裁判は茶番としてしか伝わらないと思います。 先生に告げ口して注意してもらうのと学校内裁判に訴えるのと、何が大して違うのかわかりません。 前途で言ったように、出来る人は先生に言って注意してもらってるんです。 出来ない人ってのは、自分にも非があるかもしれない、恥ずかしい、という思いがあるわけで、それは先生への告げ口を裁判と言う窓口に変えても同じじゃないですか? 社会のお勉強としては面白いのかもしれませんが、やはり自分は裁判ぐらいじゃイジメに効果があるとは思えません。 それこそ最後には本物の警察が出てきて数年少年院に入れさせる、と言うなら別ですが。 現実の裁判も後ろに警察が控えてるから効果があるんであって、裁判だけして罰も何もないならみんな好き放題やりますよ。
お礼
再度のご回答ありがとうございました!!
補足
裁判所の先例(過去の判例)があるからこそ、 現在の事例の解決に役に立っているわけで、 「学校内で起こった紛争」も文書化&記録保存 しないから、新たに学内紛争も参照すべき先例記録が なく諸々の教師も戸惑ってしまうのです。 やはり、「先例(過去の判例)」というべき過去の事例を 判決文&趣旨&事例として半永久的にストックしていく 姿勢はとても大切だと思いますよ。 「学校裁判」で起こった事例をもとに将来の教師も 紛争解決の光明がみえてくると個人的には思いますが。 たとえ小さな「いじめ事件」といえども、現実の 警察&検察当局のように、なるべく正確に文書&記録化 していくことは、今後のいじめ等学内紛争対策に とても有効だと思うのですが。 人間を性善説的に捉える立場の人と性悪説的に捉える 立場の人とでは、やはり根本的な部分でしっくりこない 部位もあるかとは思いますが、私個人はなるべく 性善説的に捉えるように心がけてはいるとは思います。 (別な視点でいえば、プラス思考) 物事というのは、マイナス的に捉えればいくらでも マイナス的に捉える事ができると思います。 逆に、建設的に捉えるというプラスの視点は 周囲の協力と理解が必要不可欠となり現実は 相当厳しいです。 しかし、最初の方の回答でも述べましたが 物事というのは 「0」のままだと何も進展しません。 とりあえず「1」の状態にもっていかないと 「2」以降の段階には必然的に進展しませんから。 何らかの大きなシステムにのせて、細かく修正を 施していく姿勢が今の教育現場には必要だと 感じるのです。設立当初の制度に何らかの欠陥があるのは、 我々が(過ちの多い)人間である以上、ある意味当然です。 問題は、「過去の事例」を疎かにせずに如何に「現在の 事例」の解決に応用していくか・・・・というそこが 核心だと主張したいわけです。 今の教育現場では、過去の「過去のいじめ等に際し 過去の教師が如何に対処したか」を文書&記録化して いない以上、いわば場当たり的に対処しているのが 実情なのでしょう。 これでは、過去の経験も全く生かされていないし、 将来の教師に対しても何の財産も残さない事になってしま います。 「学校裁判」を通じ、たとえ(和解で終結した)細かい事例 といえども、細かく文書化&記録化していくことは、 とても将来のいじめ等学内紛争に役立つと思いますが。 現在の法律家(弁護士・検察官・裁判官)も、 (たとえ悪先例といえども)「先例(過去の判例)」 あってこそ、現在の事例&将来の事例解決の 最も大いなる指針にしていると思うのです。 部分社会(学校)でやれる最大限の事を、今の現状は しているとは到底思えませんから。 再度のご回答、心から感謝致します。 物事には絶対的に正しい回答など存在するわけが ないですから(誰の主張にも一長一短あり) 議論すること自体に有効性を感じました。 感謝です!!
- K29_2005
- ベストアンサー率27% (15/55)
それはつまり、イジメた側と、イジメられた側が明確になる必要があるわけですよね。 まずイジメられてる側が、全校生徒に対し「イジメられてる」と公表出来るわけがありません。 そんなのを公表できるイジメは大したイジメじゃないし、本質的にイジメられる側も弱くありません。 出来る人はとっくに先生に言って注意してもらってます。 また全校生徒出席の大規模裁判をいつやるのですか。 控訴まで含めて、本業である勉学が大きく削られる可能性が高い。 授業をそのままにするなら、部活の時間が削られます。 そしてイジメをする側が校内で行える処分程度でイジメをしなくなるとは思えません。 より陰湿なイジメに移行する方が多いでしょう。 実際独房に入れられる犯罪者の再犯率は非常に高い。 まして学校内で出来る処分なんてたかがしれてます。
お礼
ご回答感謝します。 部分社会の「法廷」の存在が あるだけで、「いじめをする側」への 大いなる威嚇行為となり、有効な手段と 思うのですが。 その威嚇行為により、当初は「いじめ裁判」 が多くとも徐々に威嚇行為が「いじめをする側」 への精神的抑圧となり、いじめそのものも 減っていく気が致します。 「処分」そのものが、当該制度の本来的 目的ではなく、全校生徒の前で裁かれる 恐怖感&羞恥心を全生徒に浸透させ、 その継続的感情がいじめを誘発する心因 を故意に封印させるわけです。
- tsuyoshi2004
- ベストアンサー率25% (665/2600)
机上論としては優れていると思います。 但し、現状で取り入れる問題は >生徒会を中心として、(検察審査会のような)起訴・不起訴を審議 告発状の守秘義務や生徒会の中立性が保てるのか? 校内の人数は多いところでも2000人程度で少なければ数百人程度でしょう。被害者、告発者、被告発者と特別な交友関係が無い生徒会でなければ、そこでの恣意性が他から疑われる可能性があります。 >裁判官の役目は校長 校長がそこまでの統率力、強制力また公平性を保てるのか? 校長とは国で言えば行政も立法も担っている責任者になります。 その場合に司法判断が揺らぐ可能性は大いにあります。 >「裁判員」を校内生徒から無作為に選び出す これもまた公平性や中立性を維持することができるのか? やはり被害者、告発者、被告発者との関わりや被害者、告発者、被告発者からの影響を排除できるかは疑問です。 という課題を明確にする必要があると思います。
お礼
ご回答感謝致します。 最初の回答について) 設立当初の制度には不備がありがちなのは、 我が国の明治初期の近代裁判制度導入時にも 言えるとおもいます。問題が生じたら修正を 施していけばよいだけです。 穿った見方をすれば「特別な交友関係が無い」から こそ公正な裁判がしやすくなるのです。 ご存知の通り、我が国の裁判制度にも 「忌避」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%81%E5%88%A4%E5%AE%98%E3%81%AE%E5%BF%8C%E9%81%BF といって、 手続の公正さを失わせる恐れのある者を、 申立てに基づいてその手続に関する職務執行から排除す ことが可能な場合もあります。「学校裁判」でも これに準じた設ければよいだけです。 中盤の回答について) 「処分を下す責任」の重さから校長以外からは 考えられないでしょう。 また陪審員制度を導入している各国の裁判制度 の場合「最終判決を下す裁判官」は「陪審員の評決」 結果に事実上拘束されるのが通例です。 「処分を下す責任」の所在を明確にする趣旨で 裁判官の役目を校長にしたわけです。 また上記「陪審員の評決に裁判官の判決 が事実上拘束される」趣旨から、校長の責任も 分散化されるわけですし、校長に過度な責任は 生じていないと思います。 最後の回答について) 米国では、陪審員選任手続きといって、 検事、弁護士の双方が個々に質問しながら 選んでいくというシステムがあるし、 また相手が選んだ陪審員に対して一定の 拒否権もあります。これに準じた制度に すればよいのではないでしょうか? また「外部から陪審員への圧力」ですが これはデミ・ムーア主演の「陪審員(1996)」 のように映画化されるほど、一時期、米国でも 問題になったようです。我が国でも「裁判員制度」 が始まりますが、このあたりの外部からの圧力の怖れが 「裁判員」に選出されるのを嫌がる理由の一つと いわれています。「学内裁判」も、ある意味同じ システムである以上、本来の「裁判員制度」 と併行して討議されつつ修正していかなければ ならないと思います。 私が地元の弁護士をサポートとして介入させる といった趣旨は、「学内裁判制度」がなるべく 正常に機能にさせるために提案したわけです。
- phj
- ベストアンサー率52% (2344/4489)
私自身「学校自治」にとても賛成です。 欧米のエリートスクールは、学校自治を貫いています。ハリーポッターのモデルとなったと言われる、オックスフォード(大学だけではない)がいい例です。 軍隊と同じように、学校をひとつの完結した社会として、その構成員である教師と生徒が、責任を分かちあうのです。 しかし、学校自治を貫くのは大変な覚悟がいります。 質問の例のように、裁判を開き裁きを行うのは簡単ですが、それを全員が受け入れ、また秩序ある状態を自分たちで維持していくのはとても大変なことなのです。 なにかあったとき、簡単に警察を入れたり、他の力を借りたりしたのでは、自治とはいえないからです。 日本のいじめには、社会性という視点がとても欠けていると思います。学校の先生も責任感が足りませんし、保護者も「学校という社会」をよくするという視点で、子供の教育をしているとは思えません。 また一般市民も、いじめに対しての警察権力の導入を希望したりして、「自分たちで社会をよくする」という観点が抜け落ちていると思うのです。(この場合の社会は、学校の中です) 質問の内容の通りのことが出来れば、日本のいじめもよくなっていくと思いますが、残念ながら、それに日本人が耐えうるとは今の段階では思えません。
お礼
ご回答感謝致します。 確かに、大学自治すらも 「東大ポポロ事件」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E3%83%9D%E3%83%9D%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6 等々、様々な社会問題があったようで、 社会的、善悪は別論として、 特に中高といった精神が未成熟な段階で 学校自治をまかせるのは無理があるのが 実情でしょう。 ただ深刻な特殊な社会問題を解決するためには、 何らかの基本レールを敷いた上で、事後的に問題が 発生した場合に「基本レール」に修正を加えていく 方法がベストのような気が致します。 様々な法改正もそうですし。 最初から完全無欠の制度などあるわけないですし。 ただ、確かに当方の提案した素のままの制度では 「裁判員」に選ばれた人が何らかの圧力によって 「有罪」「無罪」かの何れかに強いられる可能性も 否定できず、また最悪なケースでは、ある投票を することによって、その人が新たないじめの ターゲットになってしまったら元も子もありませんから、 当方の発案を当初から大幅に修正する必要性は あると思います。 余談ですが、幕末から明治にかけての近代裁判制度 発足の当初は、当時の慣習上の軋轢から やはり様々な問題が噴出していたようです。 でも、厳しい世相を耐え抜いて今日の裁判制度は 日本の社会になじんできたわけです。 「学校裁判制度」も仮に現実化した場合、 やはり当初は厳しいプロセスをたどるでしょう。 ただ、「0」のままだと何も進展しません。 とりあえず「1」の状態にもっていかないと 「2」以降の段階には必然的に進展しませんから。
お礼
ご回答感謝致します。
補足
ご回答感謝致します。 裁判ですから、弁護人の能力&証拠能力 等に大きく左右されることは通常の裁判と 同じです。 従って、この制度が開始当初は多くの告発等 が相次ぎ、冤罪に準じる事例も相当数出てくると 思います。 しかし、「学校裁判」の終局的目的は 学校内に全生徒の前で裁かれるという羞恥心 に重きを置いているので、この恐怖感&羞恥心 というものは良い意味で後輩に暗黙的に伝授 され、将来的にはかなりのいじめ減少につながる ように思えてなりません。 科学が発達していない一昔前には「妖怪」等 を含む伝承民話が、罪の意識の形成に役立ち ある意味「犯罪抑止効果」がありました。 この種の「大いなる恐怖感」というものは、 いつの時代もやはり必要な気が致します。 犯罪・いじめ抑止につながるような恐怖感 を擬似的といえども作り出すのは今日でも 大いに有効性を感じます。 現に、通常の裁判所があるおかげで、 かなりの数の犯罪が事実上抑止されるという 犯罪予防効果があるのは事実だと思います。 何も授業を削減してまで「学校裁判」を するわけではなく、なるべく受理する裁判を 絞り、月1程度の全校行事の一環として処理する だけでも「大いなる恐怖感&羞恥心」の浸透に 役立つと思います。 逆にみれば、いじめられている側からすれば、 この制度があるだけでも大きな心の支えと なるわけですよね。 ただ、一歩間違えば、客観的に些細な事で学校訴訟という 生徒間で不信感が募るというおかしな側面もあるので、 訴訟受理の前提で、緻密な事実関係把握を重要な要素とし、 軽微なものはなるべく訴訟外の「和解」で解決できたら ベストだと感じます。