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安楽死ディベート反対側の意見について お助け願います。
来週、安楽死についてディベートをします。私、個人的に賛成なのですが反対側から討論しなければいけません。 そこで安楽死を反対する理由についてご意見を持っているかたなどいらっしゃいましたらおしえていただけますか? 反対する理由を宗教的にしか今のところ見出せません。 ぜひおねがいします。
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私も安楽死には大賛成ですが、ディベートをなさるなら次のような点を、「反対」の論拠とすればよいでしょう。 もし、安楽死が法的に認められると、 ● 介護に伴う負担をなくすために、安易に安楽死を選んでしまうようになる。この場合の負担とは、介護する側の金銭的・物理的負担もさることながら、患者自身の(介護で迷惑をかけているという)精神的負担の両方を意味します。 ● 医師あるいは病院が、経営上の観点から、あまり金を取れない患者(儲からない患者)にベッドを占領され続けるよりは、新しい患者を入れるべく、安楽死を勧めるようになる可能性がある。 ● 最も重要な要素として、安楽死が本当に患者本人の意思に基づくものかどうか疑わしい事例が頻発する可能性が高い。 つまり、上の1番目の理由とは逆に、介護を続ける苦痛(特に金銭的負担)を安易に回避する手段として、安楽死させられる可能性がある。 安楽死の対象となるような患者には、意識のない患者や、自己の判断が出来ない患者が多いはすである。このような患者本人の意思を、どのようにして「証拠」として残すことができるのか、大いに疑問である。 「宗教的に安楽死は認められない」とか、「人は生きようとする努力を惜しんではならない」といった反対理由は、ディベートの論拠としては弱いので、避けたほうが無難でしょう。
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- _hiroya_
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たとえーばね! おばあちゃんがいて、いい年になる子どもがいました。 おばあちゃんは、安楽死をしたくないけれど、子どもの負担(苦しむ親を看る苦痛、愛するものの闘病に伴う様々な苦痛)のためを思って、 「先生、安楽死させてください」 ってゆうと? もちろん、おばあちゃんの内心は子どもにはわかる。先生にもわかるかも。でも、おばあちゃんはゆう。 「先生、安楽死させてください。安らかに死にたいんです。」 あと、絶望的な末期患者を、執念と希望で治療しようとする事で、医療技術は上がる。そうなると、これから先、安楽死しなくても治療できるという場合の患者が出てくるかも。安楽死させる、するのは、死ぬ方も、治す方も楽だけれども、なんというかな、非常に虚しい印象がある。 苦しむという事はどういうことか?ただ「嫌な事、避けたい事」なわけではないと思います。 個人においてもです。社旗における苦しみというのがどういうものかはよくわかりません。 安楽死は、先進国で多く出る高齢による病人を、納得(周囲も個人も)させつつも、無難に数を減らしていこうとしているような、、。 ちょっと悪魔的な案のような気もします。 なんか、安楽死に、是非を問うこと自体のあやふや感がぬぐいきれません。 安楽死は、否定もできなければ肯定もできないように思います。 反対側ならば、なんといいましょうか。 ・容易に死が選べる。なぜなら、それは自死ではなく他死、他殺?であるからです。殺してくれと頼んでいるわけですよね。 私は、反対派でも、賛成派でもありません。 仮に自然死(病気等)で苦しんでいても、無理に生かすのか、自然に死なせるかの選択が、無理に生かすのか、楽に死なすのかの選択にすりかえられているような気がするから。 延命治療が無理をしているなら、安楽死も無理をしているといえる。 それはいかなんですかね? 人間は、自然の中で、もがき楽しむ存在であるのでしょうか? 自然死とはを持ち出して、それに反するものとしての安楽死の側面を提示してみてはどうですか? 人工的に死をもたらす、医療。医者、他人?の仕事ではないのかもしれません。 昨今人間は、自然に抗ってきましたから。 その人を終わらせるのは、その人を最も愛する人ではないですか? わたしはそう思います。 その人を最も愛するものが、その人当人であるというのは、とびきり悲しく、せつない事でしょう。
お礼
返事が遅くなってしまい本当にごめんなさい。 安楽死を考える過程でいろいろ考えました。人の命が関わることは本当に難しいもんだいだなーー。と感じているこのごろです。 こんなにたくさん買いてもらって(^-^)ありがとうございます。
安楽死の反対派としてですか。それは足場の悪い事ですね。 これは安楽死を更に押し進めた自死についてどう考えるか、私が出した質問と回答です。参考になるかも知れません。
お礼
返事が大変遅くなってしまい、ごめんなさい。 ばっちりチェックしてました。 ありがとうございます。(^ー^)
- chihoko
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●オーストラリアの例は ご推察もあてはまるかとおもいます。 マクロ的には 「倫理」と「個人の自由」の共存ということでしょう。 社会が成熟すると「個人の自由」が倫理を越えて拡大していくように 感じています。戦時中の日本と現在を考えてみてください。 ポルノが解禁されていない日本はその意味では まだまだ半熟の手前って ところでしょうか。 さて 安楽死については「倫理」と「個人の自由」の狭間にゆれる 現状の考察のほかに 哲学的考察をしてみることをおすすめします。 例えば 「美しいまま死にたいからと 癌末期患者が死ぬ日時を決めて 筋肉弛緩剤で死んでいくこと」を あなたはどう感じたか。 その感じ方の根拠を深く深く掘り下げてみるのです。 たぶん命(DNA)と概念(ミーム)の流れをさかのぼることになるでしょう。 そこにあなたの幸せに照らされたこの問題にかかわる答えがあるはずです。 わたし個人のこの問題に関する哲学的答えは「前述したもの(「死」を楽しむ)」です。
お礼
ふたたび書き込んでいただいたこと感謝します。 私は死を楽しめるかどうかは自信ありませんが管をたくさんつけて生き延びるより は自然にまかせたいとは考えてます。 いろいろ考えされられました(^ー^; ありがとうございます。
- chihoko
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●人工呼吸器などの治療を止めることによる安楽死は 本人の自由です。 これを倫理的にとめることは 個人の自由への侵害です。 筋肉弛緩剤などによる安楽死は 自殺です。 自殺は倫理的には通常認められません。 さて 倫理とはいったいなんでしょう? わたしはこう考えます。 社会における「社会と個人」のあるべき姿の指標である と。 つまりあくまでも社会における指標でしかないのです。 個人のあるべき姿など 概念できめつける権利はだれにもありません。 よって安楽死は社会的には不可であり 個人的には可の場合もあるということです。 ●わたし個人的には 自然死を望みます。 どんな苦しみの先にも 死の前には最大のエクスタシーがあるような 漠然とした期待があります。また 死をしっかりと観察してみたい 好奇心も強くあります。 どんなに苦しくとも 自然の香りと風とささやきにつつまれて死を迎えたい。 現在の自宅は死ぬ場所として10年探しあぐねた末に みつけたところです。 死は怖い物でも 苦しいものでもなく 自然の一部です。 人生の始まりが 自然によるエンターテイメントだったのですから 人生の終わりも 自然の演出として「死」を楽しむべきです。 苦痛もまた楽しいものです。
お礼
安楽死は社会的には不可であり 個人的には可の場合もある。そういうことってたくさんありますよね。オーストラリアではマリワナの木を一家庭一つ庭に植えたり、そのはっぱを持つが合法化されてます。でもすってはいけないのです。社会的(政府など)に認められると認めた社会の責任が問われて歯止めが利かなくなるからでしょうか?? 興味深い意見ありがとうございます。
- ginger_ale
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一般に安楽死を肯定する議論は「安楽死を選んでもよい」という考えに立脚していて、それは「安楽死を選ばなくてはならない」という考えと異なるものです。前者の考えは「安楽死を選ばない」という態度を許容するので、これに反対するためには「すべての安楽死は悪である」といことが論証されなくてはなりません。反対する議論は生命倫理ではいろいろ見つかると思いますが、今僕が思いついた範囲で回答することにします。 安楽死には2つのケースがあり、患者が自殺を選ぶ場合と、周囲の人々や医者が死の手助けをする場合です。積極的な医療行為を行わないというのは安楽死の概念から外れると思われるので、論じないことにします。前者のケースについて、人間は自由といっても自殺の自由と権利はなく、自殺は悪である。後者のケースについて、周囲の人々や医者は他人の死を幇助する権利と義務をもたない。これで否定できると思います。 自殺が悪であるという理由としては、家族や友人など、周囲の人々が哀しむから、と言えばいいでしょう。自分の身体や命でさえ、周囲の人々とは無関係に自分の自由にしていいものではない、人間の生が何らかの人間関係(共同体)に支えられなければならないものである以上、そういった人間関係(共同体)への配慮なしに無限の自由があるものではない、という理屈になると思います。その上で、周囲の人々が他者(患者)の死ぬことを容認するのは悪であり、医者が死を早めるのも悪であるとして、周囲の同意によって安楽死を選びうるという議論を否定します。最後に、生命の尊さは何よりも生きている(生命活動を行っている)という事実にあるのであって、生命の質によって尊さの程度を決めてはならない、と主張すればいいんじゃないでしょうか。 でも、こういう議論はやっぱり反対のためだけの反対論で、宗教的信念にでも支えられていないかぎりあんまり意味がある議論だとは思いませんが。
お礼
人間は自由といっても自殺の自由と権利はなく、自殺は悪である。後者のケースについて、周囲の人々や医者は他人の死を幇助する権利と義務をもたない。これで否定できると思います。 なるほどです。Ginger aieさんがでも、こういう議論はやっぱり反対のためだけの反対論で、宗教的信念にでも支えられていないかぎりあんまり意味がある議論だとは思いませんが。 というのよくわかります(^ー^; ありがとうございました。参考にさせてもらいます。
- i-junkie
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たとえば、こういうことを考えてみました。 1 患者自身が安楽死を望む場合、その行為と自殺行為との区別は、患者の主観的な「痛み」が 指標になることが多く、境界線が曖昧である。 1-1 Q 「自殺」は悪か? A 宗教的に「自殺」は悪であると感じる。 また、生物学的にも異常であるかもしれないと感じる。 (生物というものが、遺伝子の複製を究極的な目的とするならば。) ただし、法治国家としてそれを罰する手段はない(←死去するから当然) したがって、「自殺権」というのは、社会的なタブー、社会的に 認められないものと考える方が現実的であるかもしれない。 「自殺」にまで「愚行権」を拡張はすべきではない。 したがって、自殺を認めることになる可能性が残っている以上、 「安楽死」の権利を認めることは社会的にできない。 2 患者の周囲の人間が「安楽死」を望む場合 2-1 患者の周囲の人間と患者が明確に合意した場合 一番問題がないケースであるだろうが、「安楽死」以外に選択肢が ないという状況においては、多くの場合、患者の意志確認が できないような状況ではないかと思われる。 逆に、患者の意志がある場合というのは、たとえほんのわずかで あっても「治療」が可能な場合であって、その可能性を断ち切ることは 周囲の人間の「殺人行為」となる可能性がある。 取り返しのつかない「死」という選択肢は、慎重に慎重を極めて 検討する必要がある。 また医療費の関係で「延命治療」を打ち切らざるを得ない、という 場合には、周囲の人間のみならず、厚生省の問題にも発展させるべき。 ただ、それを隠れ蓑に「打ち切る」人もいるだろう。 2-2 患者の意志が不明瞭な場合 明らかに問題あり。 ※私は、「人間的な末期ケア」には賛成、「安楽死」には慎重です。 それぞれの状況によって認めていい場合が存在するかもしれませんが、 やはり歯止めがきかなくなる可能性が、恐いです。 死ぬほど痛みの激しい第三者を想定して考えてみると、 「生の人工的な継続」を取りやめることには抵抗が少ないけど、 「死の人工的な推進」には嫌悪感がある、という感じでしょうか。
お礼
丁寧なご回答ありがとうございます。痛みってなんだろう、ということ最近考えます。仮に安楽死が痛みから逃れる方法だとして、、、肉体的な痛みで苦しい、その苦痛は死ぬまで続く、解放されたい、→安楽死 だとしたらそれは精神的痛みにも通じるのでしょうか。 うーん、考えれば考えるほどわからなくなります。 あまりうまくはいえませんが。ありがとうございます。
昔、こんな回答を書いたことも。No.1の回答です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=175674
お礼
ありがとうございます。さっそく見てみます!
難しいですね。 賛成派の人達は、現行の「本当に最悪の事態以外では認めない」という立場をとってくるのでしょうか。それとも、「本人が希望すればええやん」って立場になるんでしょうか。 もし前者なら、「医者の殺人罪を免罪にするのか。安楽死希望書が誤って提出されたらどうするのか。万が一にも医者がトラウマを抱えてしまったらどうするのか」とか、そういったかなり重箱の隅をつつくような論法を使うしかないですね(^_^; 後者なら、「完治する可能性の確認が難しくなる」って言えばいいので楽になると思うんですが……。
お礼
賛成派の人達は、現行の「本当に最悪の事態以外では認めない」という立場をとってくるのでしょうか。それとも、「本人が希望すればええやん」って立場になるんでしょうか。 とおっしゃるようにわたしも 安楽死について調べていく中で安楽死とはすっごく範囲がひろいんだな、と感じています。たとえば死ぬ権利が存在するとしたら殺す、死なせる権利とか義務が誰かに乗っかるわけですから、そのへんのアプローチが違うとディベートが対立するところがちがってくるんじゃないかな、と心配してました。ありがとうございます。
お礼
早速のご回答ありがとうございます。「宗教的に安楽死は認められない」とか、「人は生きようとする努力を惜しんではならない」は弱い!そうなんですよね。そこですごく苦しんでいました。Kobeccoさん、いいアイディア本当にありがとうございました!