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"she had to have it"――ヘミングウェイの短編「北国ミシガンにて」から(Q3)

ヘミングウェー作品について何度もdemandingな質問を投稿して、盛んに当枠諸賢の手(脳?)をギリギリ限界まで煩わせている者ですが、めげずに続けますので、みなさんもめげずにご意見をお寄せ下さい。 いよいよこの作品のクライマックス終盤―― (注意:未成年者には刺激の強すぎるシーンです) "You mustn't, Jim. You mustn't." Neither Jim nor Jim's big hand paid any attention to her. The boards were hard. Jim had her dress up and was trying to do something to her. She was frightened but she wanted it. She had to have it but it frightened her. "You mustn't do it, Jim. You mustn't." さて、いったい "She had to have it" は、高見浩訳のようなもので好いのでしょうか? すなわち「ほしくてたまらなかったけれど」です。 ちなみに、ここで、龍口訳は「どうしてもそこまで行かなければすまされなかったが」、大久保訳は「どうでもそこまで行くよりしかたがないのだと思いながらも」となっています。 相当(以上)の違いです。 私個人としては、「ほしくてたまらな」いという訳のほうが frightening です。"have to do" のニュアンスの問題でしょうけれども、みなさんはどう思います?

みんなの回答

回答No.5

Gです。 補足質問を読ませてもらいました。 >みなさんはどう思います? 私には「私の考えを伝える」事が出来ないようです。 もう少し日本語を身に付けてみますね。

noname#73834
質問者

お礼

Gさんが、そんなに謙遜される必要はないと思うのですが。 すくなくとも、作品に向かう上での、或る種の piety の必要性は、充分こちらに伝わっておりますし、もしそれがGさんの主張・信条であるなら、まさに“出来ている”といえるのでは? もちろん、あくまで「出来ない」と嘆かれるのなら、仕方ありませんが。 そもそも、私としては、私自身の読み取り能力の乏しさを、素直に吐露したまでのことです。 また、毎回、当カテゴリーでの投稿を通じて、私よりも読解力・英語力に優れた方々の意見をいただいていること、そして、私なりの感謝の念をあらわし続けていること、また、あらゆる新規のご意見に対して、なおも強い期待と歓迎の用意があることは強調しておきます。

noname#114795
noname#114795
回答No.4

いろいろ発展させてお考えのようで感服します. ここでは結果としてそうならざるを得ない,自然の流れで受け入れる,という程度だと思われます. 「ほしくてたまらなかったけれど」は意訳過ぎの先走りで,えげつない感じがします.たしかに,意外には感じたけれど,それも受け入れられる,という意味合いでしょう.義務のような意味では極端ですし.

noname#73834
質問者

お礼

やはり、当該箇所からは、ニュートラルなニュアンスしか感じられない、とのご意見ですね。 私も同感で、とてもありがたい気持ちで、読ませていただきました。

回答No.3

Gです。 簡単に書かせてもらいますね。 ここですね、date rapeがこの短編には含まれている、と言う部分です。 1923年頃、日本の本国に沖縄から空手が紹介され始めたのです。 今ですら「未成年」には云々といわれるシーンですね。 これを彼女のせりふとして言わしているわけです。 今思えば「とんでもない事をヘミングウェイはした」のです。 デートレイプでの女性の複雑な問題点はいまだかつて解決しいません。 アメリカでもです。  >(Jim) was trying to do something to her. She was frightened but she wanted it. なんとambiguityそのものの表現でしょう。 something to her 今でこそ性教育なり性的基準の違いがあるももの50年代でもこれをどうとるか分からない若い人たちはいたのです。 30年近く前の事です、この作品は。 somethingとは性的なものであることは分かっていても、具体的な意味はこのambiguityそのものへの解釈をする読者がしなくてはどうにもならない事ですね。 それを受けてitと書いているわけですから、インターネットに載っているはずの個人エッセイの内容を「これだ」と言うわけにはできないはずです。 このambiguityをふんだんに使った作品で世界で一番よく読まれたといっていい日本人の書いた作品(日本の著作で一番よく読まれている、という事で)があります。 なんだかご存知ですか。 宮本武蔵が書いたとされている五輪(の)書なんです。 武道と言うものを知らない人がこれを現代訳で読んでも決して理解できるものではありません。 あまりにも表面上非常に「分かりやすい」表現をしているので「理解していると思い込んで読み進んで」しまうのです。 だからこそ、この書(もちろん英語版です)の読者の中でかなり高いパーセントで読んだ人がビジネスマンなのです。 ちなみに、私はsquashingさんがやっている事を、仕事の関係でこの五輪の書の英語版の数冊の比較をしたときがあります。(ほとんどの労力は弟子たちがしたわけですが) 全て英語に訳したものです。 一冊は武道のことはまったく知らない著名な翻訳者です。 見事に私は比較作業から除外しました。 このシーンも実はそうだと私は思っています。 私は70年代前半での「文化的背景」の元でこちらの大学でヘミングウェイについてとことんまで教授に絞られて他の生徒と一緒になって討議また討議を重ねた経験から今回の回答を書いているつもりです。 (ところどころ記憶が薄いところがあることはお許しください) しかし、討議して何かの「結論」が出たのか、と言うと、出ませんでした。 出ないから討議する、と言う姿勢ですね。 そして出ないことも回答のうちである、と言う観念です。 このプロフェサーは「押し付けることなく」討議をすることに価値観を植えつけてくれた私にとって数少ない「私の専門外」での恩師でもあるのです。 >She had to have it but it frightened her. これを今回書く前に少し(30分程度ですが)インターネットで調べさせてもらいました。 読みが浅いエッセイばっかりがネットにあります。 女性心理といいながら、その頃の「大人である女性」の心理をいかにも現代の女性の心理と重ねて「コメント」を書いているとしか思えないものがあまりにも多すぎると私は感じるわけです。 という事で、龍口訳は「どうしてもそこまで行かなければすまされなかったが」に近いフィーリングを私は持っています。 つまり、Jimが結局彼女がどのように反応するかによって彼が作り出す情況が変わってくる、つまり、その頃の女性の持つ(少し一般論的な先入観はありますが)「情況は全て女性が管理する」そして男性はそれによって「達成」するかしないかが決まる、と言う事なのです。 そしてその残骸が、現代のデートレイプの初段階と結果的心理反省として残っており、そのギャップが今でも大きな法的問題になってきているわけです。 「事」が起こるのは女性任せの時代だったわけですね。 (考えにくいですか?) なお、frighteningですが、「事」への恐怖とは私は感じていません。 今まで持ち続けてきた感情とこれから変わる可能性がある一瞬にして作り上げられる自分とその自分がいる別世界への恐怖(と言うより、何かが自分を変えてしまうだろうと感じる事への良悪判断手段のない自分への恐怖)の事だと私は思いますよ。 簡単にと書きながらまた長くなってしまいましたね。 まったくの個人主張そのものとして書かせてもらいました。 そして更に他の回答者の方々のご回答に対して批判・反論をしているわけでは決してありません。 これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。 

noname#73834
質問者

お礼

今回のご回答は、非常に分かりにくいです。 ありがたく読ませていただきましたが…… 補足欄で、私の疑問を少しお伝えいたします。

noname#73834
質問者

補足

>1923年頃、日本の本国に沖縄から空手が紹介され始めたのです。 これは、果たして何をおっしゃろうとされたのですか? まるで、何かを言いかけて止めたような文章にお見受けしますが。 >インターネットに載っているはずの個人エッセイの内容を「これだ」と言うわけにはできないはずです。 これは、どういうお話なのか、よくイメージできないのですが。 >「事」が起こるのは女性任せの時代だったわけですね。 (考えにくいですか?) これも私には不明です。 言ってみれば、時代を問わず、今だって、「女性任せ」ですよね。つまり女性の許可がなければ、性犯罪になるという意味では。 >何かが自分を変えてしまうだろうと感じる事への良悪判断手段のない自分への恐怖 これについては、私は意見を異にします。 私は、“他人というものに対して(発見を伴う)驚きを感じている”、と取ります。こうした“発見的驚愕”および“受容”が、ヘミングウェイの作品では、しょっちゅう目につきますからね。 つまり、彼の作品を通じて、常に“オチ”の部分を形成している一連の心的プロセスだと思います。親しいとは言いきれない他人に、主人公が接していくうち、ある発見的な驚愕を体験する、そして、そうした他人の圧倒的存在のありかたを受容せざるをえない気持ちになる。これこそが、ヘミングウェイなのです。 わずかながら、彼の作品を読んだ限りでの、私の得た直感、ないしは、ひとつのテーゼですけれども。

  • chunter
  • ベストアンサー率4% (2/44)
回答No.2

ヘミングウェイは文章の「間」を巧みに利用する作家で、読者に「抜けている」部分を読者なりに埋める(解釈)ことにより表現のインパクトを引き出すところが彼の作品の特徴で且つ彼の作品のアジでもあるかと感じます。 たとえば、 She was frightened but she wanted it (to happen). She had to have it (happen) but it frightened her. 「そう」なって欲しかった。「そう」ならなくてはならかった。 「そう」は「it」を指し、行為そのものを意味します。 つまりポイントは「受身」なのです。 こんな訳はどうかな? 「怖かったが、続けて欲しかった。それを欲求している自分が怖がっていた。」 イメージが沸きますか?

noname#73834
質問者

補足

> つまりポイントは「受身」なのです。 おっしゃることが良く分からないので、少々困惑しております。 > She had to have it (happen) 文法的に理解できません。どういうご趣旨で括弧を用いておられるのか…… > 「(…)それを欲求している自分が怖がっていた。」  イメージが沸きますか? 正直言って、無理です。また、(失礼を承知で)ハッキリ申しますが、ご提案になった日本語訳も、日本語として、非常におさまりの悪い表現だと感じます。 できるだけ平明な解説をお願いいたします。

回答No.1

She had to have itを素直に訳せば仰せのとおり「そこまで行かなければ」的な訳になるでしょう。 高見浩氏はそれだけでは満足せず、より日本語として自然な訳文を選択したのだと思います。すなわち、「そこまで行かなければ」がこの場合何を指しているのか、までをも考慮に入れて訳したわけです。She had to have itが直前の文のshe wanted itの言い換えである、という推測も働いたのかもしれません。 譜面を素直に追うだけの指揮者が居る一方で、主観的な解釈をできるだけ盛り込むことを目標にした指揮者も居ます。「指揮のあり方としてどちらが正しいのか」と悩むより、「どちらが自分の目的に合っているか」「自分にとって楽しめるのはどちらか」を考えた方が幸せになれるでしょう。翻訳家もまた然りだと思います。

noname#73834
質問者

お礼

ご意見をお寄せ下さいまして、ありがとうございます。 >高見浩氏はそれだけでは満足せず、より日本語として自然な訳文を ――という考え方(があるとすれば)によって、ヘミングウェイの原文の荒削りな風味がかなり損なわれているという気がします。私の感じ方ですけれども。 それは、別の投稿で指摘した、短編「異国にて」中の、三日間の不在の記述の直後、わざわざ「四日目になって」と訳した高見浩流の過度の“親切さ”への違和感にも通じるものです。 >「指揮のあり方としてどちらが正しいのか」と悩むより[…] ――とのご提案には、若干、賛同できかねます。このような一般的アドバイスをなさる方が非常に多くて、実は、けっこう閉口しているのです。 まさに「どちらが正しいの」と悩むことが私にとって最大の fun なのですから。 私の投げかける問題は、つねに個別的・具体的な箇所の"良し悪し"のはずで、そこで、学者たち(?)が妙に(?)好む(?)一般論の登場には困ってしまいます。 それにしても、なぜ彼らは一般論によって、個別的問題を封殺したがるのでしょうか? 私の直感では、彼らは個別的問題において目を見張る解釈を提示できない無能力さを抱えており、それを露呈したくないからだ、と思います。まあ、どうでもイイ話ですね。 私の書き込みを読んで、きっとこの種の優劣比較にともなう fun に同感される方も大勢いるでしょう。もちろん、これは、クルマやパソコンを買うときの商品比較の fun と通じるものだから、結局、どこかで折り合いをつけなければならないモノには違いないでしょうが。