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上智大学について
上智大学は難関私大として知られていますが、いつ頃からでしょうか?早稲田と慶応は戦前から私立の雄と言われていたのは知ってるのですが。戦前から上智は今のような大学だったんでしょうか?
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- hidextasima
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No.2の祖父の方の言ってる事は、デタラメですね。 戦前から早稲田と慶応は私学の雄として、難関大学であり、ある程度裕福な家庭の者しか入れませんでした。 戦前は、大学にいく人間自体が少なかったです。東大でさえ誰でも入れたといわれていた時代です。昔の芸能人がよくそんなことを言ってますよね。むしろ、私立である早稲田と慶応は学費の面で入る人間を選んでいたはずです。 まあ、当時は、旧帝国大学よりも軍の士官学校のほうがエリートだったとさえ言われています。 というか、戦後60年以上たってるのに、上智大学とは全く関係のない話をする人って面白いですね。
- momoe2006
- ベストアンサー率25% (7/28)
家に昭和51年度の週間朝日の大学偏差値表がありましたが、この時代既に偏差値は早稲田・慶應・上智の順番でマーチよりも上智が上になってます。 この頃は慶應よりも早稲田のほうが若干偏差値が高かったのですね。 1957年に女子の受け入れを開始し、1960年代に入り 徐々にと難化したのだと思われます。
- qweras
- ベストアンサー率17% (35/200)
祖父に聞いた話ですけど、戦前は、帝国大学(国立大学)に比べて、私立大学は格段に低く見られていたそうです。 早稲田や慶応は、私立大学の中でトップだっただけで、帝国大学よりはずっと格下で、現在のような高評価を得られるようになったのは、戦後の事だそうです。 戦前の中学校の同窓会をしても、帝国大学に進学した人たちは出席したけれども、早稲田大学に進学した人は出席しなかったそうです。早稲田に入学した人は、帝国大学に入れない落ちこぼれだったので、恥ずかしくて顔を見せられないからだろうとの事です。 これは本当の話かどうか分かりませんが、戦前には、早稲田大学の理工科を受験した学生の中で、入学試験の数学が零点でも合格出来た受験生もいたと聞いています。 少なくとも、今ほど難関大学ではなかったことは確かなようです。
- tatsumi01
- ベストアンサー率30% (976/3185)
50年前ですが、東大に毎年5名程度入る私立の男子一貫校での記憶です。 学年定員300名程度ですが、東大を狙うのは学年10番以内、一橋は20番以内で英語が得意な生徒、東工大・早大政経は30番以上、早大理工・慶大工は50番以上、といったところでした(狙うだけです。合格できるとは限りません)。100番台だと明治、200番台だと日大だったと思います。上智は200番台の部類と記憶しています。 いつ頃から評価が上がったのかはわかりませんが、上記の約10年あとでは、外国語学部の女子の評価が著しく高くなり、これが全大学の難易度を押し上げたんだと思います。女子についても、JALパック(上智、青山、立教)という言葉があって、今ほど難しくはなかったでしょう。