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明治時代の文学の環境
- 明治時代の文学環境について考える
- 漱石の作品が明治時代においてどのように受け入れられたのか
- 現代と比べて明治時代の人々の文学への造詣の深さについて考える
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近松秋江の没年は昭和19年でした。従って「亡くなるまで漱石には否定的だった」に訂正。ちなみに、マイナーな作家とみられていた近松秋江は、近年再評価されて立派な全集もでています。まずは講談社文芸文庫「黒髪・別れたる妻に送る手紙」を一読されたし。好きになります。 さて漱石ですが、イギリス留学から帰国すると、ラフカディオ・ハーンの後任として東京帝国大学英文学講師の職を得、同時に第一高等学校の講師も勤めて、年俸あわせて千五百円。このように教職が本業、小説は余技。そのようにして「我輩は猫である」「坊ちゃん」などの作品が誕生しました。 そして数年後、不向きを感じていた教職をなげうって作家専業に。といっても、ただの物書きの道を選んだのではなく、「朝日新聞社員」という肩書きを得たうえでのことでした。採用された際の条件は、「月給200円。新聞に連載小説を書く。一年に一作、百回くらいの長編を」。 そうして「虞美人草」をはじめとして、未完の「明暗」にいたるまで作品がつぎつぎと連載されて、「それから」もそのようにして生まれた作品でした。とそのように考えてくると、下世話な話、たとえ本が売れなくても、漱石の暮らしの豊かさは保障されていたので、漱石の身なりと本の売れゆきは関係ないでしょう。そして「それから」のような一般受けのしない作品は、地味な売れ方をしたと想像してまちがいないでしょう。直接的な答えにはなっていませんが。
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ほかに回答がないようなので、サービス精神を発揮して、知ったかぶりをしてみます。 漱石が大家として持て囃されるのは戦後のことです。そして、そのような時代になってもなお、近松秋江のように、あんなのは小説ではないと、否定的にみる作家もいました。それは松本清張が、三島由紀夫に否定的であるのと二重写しにみえます。それは簡単にいえば、小説はハートで書くものなのに、漱石にしても三島にしても、アタマで書いてる。というのが理由のようです。そんなことで、ほんとの人間など書けるものか、ということでしょうか。 漱石の時代は、自然主義が主流で、漱石や鴎外はいはば傍流でしたから、このことからしても、漱石の小説にひとが群がるということはありえなかったでしょう。作家が文化人として持て囃され、その懐を潤すくらいに作品がひろく読まれたのは、戦後の一時期にかぎる特殊な現象でした。
お礼
ありがとうございます。そうでしたか。参考になりました。近松秋江という人は僕は知りませんでした。そんな評価もあるのですね。 漱石の写真を見ると結構良いなりをしている。ということはそれなりにお金に不自由はしていなかった、ってことですよね。売れない文士だったらもっと惨めな格好してると思うので・・小説が売れなくてもお金はあったんだろうか? 客観的事実として「それから」は何部売れたかはご存知ありませんか?
お礼
丁寧なご回答ありがとうございます。お礼が遅くなって大変申し訳ありませんでした。漱石も職業作家ではなかったんですね。いわば朝日新聞の社員、サラリーマンだった、ということなんでしょう。東野圭吾や宮部みゆきとは相当形態が違う、ってことですね。作家が職業として食っていける、というのは最近のことなんでしょうか。森鴎外だって作家は余技ですものね。 ありがとうございました。