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感覚の一致について
自分の感覚と、他人の感覚は、一致しないと思うのですが、それはどうやって説明するのでしょうか?それは、「内的な経験」っていうものにも関係があるのですか?実は、「内的な経験」もよく分からないです。未熟者ですみません。哲学には、詳しくないので、何か具体的な例をあげて教えていただけると嬉しいです。お願いします。
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前回自分の考えを述べたつもりなので、hamachihamaguriさんの私の考えを教えてくれという要望にそってるか今一つ自信がないですが、一応補足してみます。 前回述べた通り私は、自分の感覚と他人の感覚が一致するかしないかと判断する時に他人が感じている感覚そのものを知る必要があるならば、一致するとか一致しないとかという判断をすることはできないと思っています。 しかし、他人の感覚を知るという事が、他人の感覚そのものを知る事ではないという事ならば話は別だと思います。常識的には「このコーヒー甘いね」「富士山は綺麗だ」「太陽が沈んでいく」等の発言を他人がした時、他人の感覚を知ったといえますよね。それは、それぞれの発言に応じた感覚を他人がもっていることを基本的には疑わないからこそ可能なことだと思います。この見解にたてば、自分と他人の感覚を容易に比較することできますし、自分の感覚と他人の感覚は一致しない(ことがある)という結論は妥当だと考えます。 私だってそういう常識を持っているので、自分の感覚と他人の感覚は一致しない(ことがある)と思っています。ただ、デカルトがやったようにあえてその常識を疑うことはできます。それはこんな具合です。ある人が「このコーヒー甘いね」と言っているが、本当は苦いと感じているかもしれない、その人が嘘をいっていないという保証はどこにもないように思える。そもそも、すべての発言に嘘の可能性はあるのだから、他人の発言を聞いたからといって他人の感覚を知ったことにはならないのではないか、と。 このように、他人の感覚を知る証拠(発言や振る舞い等)が信頼できないかもしれないと疑いはじめると、他人の感覚を確実に知る事が不可能なことのように思えてきます。それを避けるためには間接的に知るのではなく、直接他人の感覚そのものを知れば良いように思えますが、それは不可能に見え、その結果たどりついたのは前回のような結論です。 上でだらだら述べていたことで結局何が言いたかったかというと、他人の感覚を知るということをどういうふうに考えるかによって答えが変わる可能性があるということです。それをどう考えるかというだけで論争になって当然のテーマだと思いますが、今回それが主要な疑問になっていないので、便宜的に他人の感覚を知るという事に懐疑的な立場で意見を述べてみました。 これで私の考えを言った事になればいいのですが... ところで、hamachihamaguriさんは大学の講義かなんかで哲学に触れたんでしょうか? 余談ですが私は人生の4分の1年程前に、大学で哲学専攻している、という域には達していない程度の学生でした。そういう人間のボンクラ哲学観ですから聞き流してもらって結構ですが、哲学好きな人が増えると嬉しいのでちょっと語っちゃいます。通常人の意見を尊重するというのは非常に大切な事だと思いますが、こと哲学に関してはそれよりもむしろ、相手の意見の弱いところを常に探すツッコミマシーンになるくらいの姿勢がちょうど良いと思います。相手が教授だろうがなんだろうがボケてんなと思ったら「ナニイッテンダカワカンネーヨ」「ンナ、ワケネーダロ」とツッコミをいれてあげれば、きっと顔を真っ赤にして喜んでもらえると思います(「サイキンノガクセイハオトナシクテツマンナイ」なんてのたまってる人多いから、悪意のない批判って結構受けがいいものです)。経験不足のうちはいくらツッコミいれても軽く返り討ちでしょうが、実力アップの最高の近道じゃないかと思いますし、やってて面白かったです(少なくとも私は)。ここで疑問をぶつけるのも悪くないとは思いますけど、やっぱり直に議論するのは面白いですよ、仲よくなるし。 とりあえず手始めに推定哲学六級のこの私をツッコミ倒して、是非六級の取得を狙って頂ければ幸いです。絶妙のツッコミをいれてもらえれば、私もボケ甲斐があるというものです。
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- jun1038
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たびたびすみません。 自分と同じような考えのヒトがいないかなぁ と思って、いろいろ検索しました。 人によって色が違って見えるかも知れない。 http://www.geocities.com/law_shoumona/060.htm 人種によって色が多少でも違って見えるとすればちょっと驚きです。 物体に「本当の色」はないのでは。 http://homepage1.nifty.com/katte-genki/iro6.html この方は色覚異常がある方のようで、そのため一層説得力があります。 やっぱり昔、こんなことを考えた哲学者がいた。 http://www.linkclub.or.jp/~y-kodama/html%83t%83@%83C%83%8B/paper1.html ウィトゲンシュタインという超有名な哲学者だそうです。 やはり同じことを考えるヒトはいるものですね。 ウィトゲンシュタインは、ひょっとすると、hamachihamaguriさんの最初の質問 「自分の感覚と他人の感覚は一致しない」ということをいろいろ考えた人かもしれませんね。 私は哲学には本当に詳しくないので、恥ずかしながら初めて聞いた名前でしたが、哲学の先生は当然ご存じだと思います。彼の哲学を踏まえて質問したのかも。 いろいろ検索して調べて、先生に質問すると、良いツッコミになるのでは。 では。
お礼
ホームページまでかきこんでいただけるとは・・・。ウィトゲンシュタインさんとは、初めて知りましたが、私の最初の質問をいろいろ考えた人かもしれないということで、覗いてみます。たびたびありがとうございました。
- jun1038
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どうも。管理者からはお叱りを受けそうですが、 現在のこの掲示板は自分にとってたいへんためになっているので しつこくてすみませんが再度投稿します。 周波数の問題ではなくて、色のイメージの問題です。 >ただどんな赤かというふうに感覚の深い部分に入るとひとそれぞれでしょう まさにその通りで、「赤いもの」を見て、「赤いね」「そうだね赤いね」と 一致しても、本当は「どんな赤か」というのはひとそれぞれでしょう。 ですから、極端な話、「自分にとっての赤い物」を、 他の人がどんな色に見ているかは分からないのです。 「深い赤」なのか「青っぽい赤」なのか、それとも実は「緑」なのか・・・ たとえ彼が、その色を私にとっての「緑」に見ていても、それは分かりません。 彼はその波長の光をきちんと区別できます。いわゆる「緑」と混同しません(彼は「緑」もまた別な色に見えているのです)。 そして彼は、その色を「赤」というように教わってきましたから、その色を 「赤」といいます。 「赤いね」「そうだね赤いね」両者の発言は絶望的に一致します。 繰り返しになりますが、この世の中の物体の色に、「本当の色」はありません。 私達はある波長の色を「赤」、別な波長の色をそれぞれ「緑」とか「黄」「青」 というふうに見なしています。 が、「赤い」物体は、別な生物から見たら「別な色」かも知れないのです。 繰り返しになりますが、紫外線しか出さない黒い物体の色は「本当は何色」ですか。 われわれ人間にとって黒でも、ある種の昆虫にとっては「きちんとした別な色」です。 物体に本当の色は無いのです。 わたしたちは、それを、その光の波長の違いを、 自分たちの目と脳で色のイメージとして区別しているのです。 では。
お礼
「赤いね」「ようだね赤いね」両者の発言は、絶望的に一致します―――感覚は違っても、ちゃんと解釈できる。ってことですよね。多分。自分たちの目と脳で、色をイメージとして区別しているということは、精神と、脳のつながりもあるってことですかねぇ・・・。
- chihoko
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赤と緑について その2 ●赤を緑と感じているかもしれない。 ということは赤の周波数が脳のなかで緑にシフトしていると考えられます。 わかりやすく周波数の低い「音」を例として考えてみましょう。 Cの音(440hz)を聞いて脳のなかで441hzにトランスポーズ しているとします。そこで倍音のC880hzを聞くと 脳の中では881hzにトランスポーズすることになります。 440と880は心地よい和声ですが 441と881は不協和音になります。 みんな心地よく聞いているということは 脳の中ではトランスポーズされていないということです。 ●このように 知覚情報が脳のなかで何らかの手がくわえられれば それによる感覚のちがいも発生するわけです。 この設問は脳神経の研究者かバーチャルリアリティの研究者が 詳しいと思います。 哲学することの意味もあるとは思いますが・・・。
- chihoko
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赤と緑について ●感覚の集合の中の知覚としての赤と緑を考えてみましょう。 もし赤の波長を知覚できなければその人にとっては赤は黒です。 明度しか知覚できない人にとってはグレーです。 赤を緑と呼ぶのはその人の自由ですが 赤という波長は赤固有のものであって事実です。 したがって赤という知覚の感覚は赤の波長を認識できる人々の間では一致します。 ただどんな赤かというふうに感覚の深い部分に入るとひとそれぞれでしょう。 三角形も三つの頂点を線分で結んだ図形とするなら感覚は一致します。 目のレンズにゆがみがない限りにおいて・・・。 このように脳への入力情報という観点でみれば一致する感覚はあるものです。 もちろん一致しない感覚も多くあります。 個別に考察してみるのもおもしろいかもしれませんね。
- jun1038
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どうも。「赤」と「緑」(別に他の色でも構いませんが)についての私見を。 赤い三角形があったときに、 物が三角形に見えることと、物が赤く見えることは少し次元の違う話です。 三角形は、だいたいそんな形をしたものでしょう。 でも、「赤」はその物体の「本当の色」ではありません。 確かに我々の目(と脳)は、物体から出るさまざまな光の波長の違いを 色(色相)として区別しています。 でも、どうでしょうか。 それは我々がその波長の光を区別するのに、勝手に「色」というラベルを 貼り付けているということではありませんか。 白黒の世界しか見えないある種の動物に、 「本当の色」が見えなくてダメだなあ、と言えますか。 人間の「赤」を別な色に見ている生物がいたら、その生物に 「本当はこの色だぜ」という自信がありますか。 ある種の昆虫には、紫外線が見えます。 その昆虫が、赤でも、橙でも、黄でも、緑でも、青でも、藍でも、紫でも、 あるいはそれらの中間色でもない、 「人間には思いもつかないまったく違った色」に紫外線を感じているとすれば、 その色を体験したいなあとは思いませんか。 紫外線しか出さない物体があれば、その物体は我々にとっては「黒」ですが、 その昆虫にとってみれば「きちんとしたある色」です。 その物体の「本当の色」とは何ですか。 種としての違いがあるとすれば、 同じ種に属する個体間にも多少の(場合によっては大きな)違いがないと 言い切れますか。 では。
- chihoko
- ベストアンサー率13% (14/106)
●感覚が合う人もいれば合わないひともいますよね。なぜでしょう? 感覚とは脳の処理であることに着目しましょう。 情報が入ってくる既存の情報と比較してその入力を位置づけしている。 例:夕陽→比較→音楽が連想された この比較の部分の比較する順番がミソではないでしょうか? それ以外になにか思い当たりますか? つまり比較する優先順位が似ている人とは感覚が合うということかな。 無意識で比較は行われてますからしかも超高速ですよね。 でも比較なしで甘いも辛いも感覚できないですよね。 最低でもあるなしの二段階比較はありますから。 このレベルなら感覚は一致するでしょう。あたりまえですよね。 あるなしの感覚は一致しますよね。 複雑な感覚はやっぱり比較の順位のちがいですね。たぶん。 尚赤が緑に見えるという感覚の違いはありません。 色は波長であるので 波長が脳のなかで変わるということはないからです。 もし変わるのなら病気です。医学で証明可能な範囲です。 (色盲は認識できるスペクトルが狭い病気です。)
お礼
あるなしの比較で考えると、理解しやすかったです。最低レベルで、お話していただけるなんて思ってもいませんでした。ちなみに、赤が緑に見えるという感覚の違いはあるのだと思っていました。医学で証明されるなら、確実ですね。間違った解釈をするところでした。ありがとうございました。
- cotiku
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坊主にくけりゃ袈裟まで憎い。 袈裟に責任はないけど、坊主に恨みがある人にとっては不快、良い経験のある人にとっては懐かしかったりありがたかったりします。 音楽が流れていて、うるさいと思うときと、リズムに乗りたいときがある。この感覚は人により、また、そのときの状態によって違う。 その曲によって、特に印象的な経験のある人には違った価値を加えて聞いている。
お礼
分かりやすいです。「内的な経験」についても分かりました。こんなすぐの回答、ありがとうございます。普通に考えればよいのですね。ありがとうございました。
- hana-furu
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哲学はよくわかりません。 高校の時、絵の授業で、みんなで同じモチーフで絵を描いていたら、 美術の先生が、「よく、見てごらん。白いポットの影の部分、 青っぽい色が隠れているように思わないか?」 そー言われると、影の部分が青いような・・緑のような気がしてきました。 レモンも単なる黄色ではなく、影の部分も、黒ではなく・・・。 そうこうするうちに、出来上がった絵は、みんなオリジナリティな色に富んでいて、同じモチーフの絵を描いても、色を感じる感覚の表現が、こーも違うものなのか・・と感心したことがあるのを思いだしました。 いろんな色をつかって、ポットを描いているんだけど、でも、 それは白いポットなんだろーな・・ってわかるし。
お礼
「白いポットなんだろーな・・・」って、思いますよねぇ。自分は、描いたものが「白い」と思っているのは確かだけど、みんなの、オリジナリティーにあふれる「白い」も、白なんですよね・・・。やっぱり、感覚は違うってことですよね。不得手な哲学なのでしょうけど、答えていただいてありがとうございました。
- FFMAN
- ベストアンサー率21% (15/69)
単なる一般人ですが、思い付きを書きます。 「内的な経験」という言葉は何かの本で使われた用語でしょうか? たぶん「太陽が沈んでいる」と発言した時に、その発言を引きだしたような体験そのものの ことだと理解しますが、hamachihamaguriさんが言う自分の感覚と他人の感覚が一致しないと いう時の「感覚」という言葉で表しているものと同じ意味でしょうか? もし、同じ意味でつかっているならば自分の感覚と他人の感覚が一致しないと説明するのは 不可能だと思います。 自分の感覚と他人の感覚が一致しないと言うには、自分の感覚と他人の感覚を比べる必要が あります。しかし常識的にいって自分が他人の感覚を体験することはできないのですから、 そもそも一致しているとか一致していないとか比較ができません。 他人の振る舞いや発言から、自分の感覚と他人の感覚が一致してないのではないかという推測 はできるでしょうが、それはあくまで推測であって、自分の感覚と他人の感覚が一致しない という結論を導き出すことはできないと思います。
お礼
言われてみて、初めて気が付きました。「自分の感覚と他人の感覚が一致しないという結論を導き出すことはできない」ということを。そうですよねぇ。比較ができませんものね。答えは、いろいろある。ってことですかね・・・。もしよかったら、FFMANさんの考えを教えてください。
- jun1038
- ベストアンサー率49% (138/278)
ごめん。私も哲学には全く詳しくないので、普段自分が感じていることを 勝手に書きます。参考になれば参考にして下さい。哲学的に全く的外れなら 無視して下さい。 私は、赤い折り紙の色を見て、「赤」と教育されてきました。 沈む太陽の色も、流れる血も、みな似たような色なので、「赤だ」と言います。 他人もそれを聞いて、特に違和感を感じないでしょう。 でも、例えばA君は実は、「赤い」折り紙の色を見て、 私にとっての「緑」に感じているのかも知れません。 でも、彼はそれまで、その色を、「赤と言うんだよ」と教育されてきました。 だから、彼は折り紙を「実は」「緑」に見えていても「赤だ」と言います。 夕日も血も、「緑」に見えていても、彼にとってのその色の名前は 「赤」ですから、当然「赤」と言います。 結果的に、私の発言と食い違わず、 両者は「共通の感覚」を持っているなあ、と錯覚してしまいます。 自分以外の他人が、いったいどのように感じているのか。 (おそらくは同じように感じているのでしょうが、) 厳密には分からないのではないでしょうか。 では。
お礼
私は、講義で、「一致しない」ことを前提にして学んだので、「わからない」という言葉が、新鮮です。そうですね、何も、「決めなければならない」こともないですよね。十人十色というように、人それぞれちがうんだから、「共通の感覚をもっている」と錯覚してしまっていることもあるかも・・・。多角的な面から見ないといけないですね。とても参考になりました。ありがとうございました。
お礼
たびたびのお返事、恐縮です。私は、哲学には、大学で初めて触れました。しかも、福祉の専門学校に通いながら、通信教育の大学課程を卒業しようというタイプです。だから、いつもは、専門学校に通っていて、そこで、講義(?)を受けるので、ディスカッションというものがなく、先生が、一方通行的にしゃべっているだけなので、倫理を習っていない私には、異次元の世界のようです。でも、クラスには、日常生活の会話からして、哲学っぽいことを話す男子が1人いて、対話すると、ちんぷんかんぷんです。彼は、実力的なツッコミをいれるので、先生は、いつも、たじろいでいます。私も、まだ、哲学の時間があるので、微妙なツッコミを入れられるように頑張ります。また、このサイトに寄ったときは、よろしくお願いします。本当にありがとうございました。