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キリストがもし十字架にかけられていなかったら

イエス様がもし十字架にかけられていなかったら私達の肉体が死に霊になった時、十字架の救いがないから清い人でも天国に行けないのでしょうか? それとも、キリストは自分が十字架にかけられることを前提に生まれてこられたのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • bender
  • ベストアンサー率45% (108/236)
回答No.5

> 清い人でも天国に行けないのでしょうか? 難しいことは分からないのですが僕が理解できそうなところでは、例えば、新約聖書マタイによる福音書5章(参考URL)に書いてあるイエスが言ったことに関して考えてみても、神様の期待にかなう「清い人」にはなれなさそうです。さらに、新約聖書ローマ人への手紙3章10-18節やそこで参照されている旧約聖書の箇所に書いてあることを読むと、完全に清い人はいないのではないかと思います。 > それとも、キリストは自分が十字架にかけられることを前提に… 旧約聖書を読むと、イエスが生まれる前の時代を生きた人たちも、いつか神様がどうにかしてくれるという神様の約束に望みをおいていたように僕にはみえます。新約聖書ヘブライ人への手紙11章には、旧約聖書の時代を生きた人たちの信仰が書かれているのですが、この箇所や他の箇所に書いてあることを見ると、イエスが神様の約束した人だったと聖書には書いてあるのだと僕は考えます。 イエス自身はその神様の計画を知っていたことが、例えば、ヨハネによる福音書12章1-8節や16章25-28節他から伺われるのですが、さらに17章などにあるように、自らの意思で、他の人たちのために、神様の当初の計画に従ったことがわかり、そこがすごいところのように思います。 日本では実際にそれを読んでいる人は少ないかもしれませんが、世界中の多くの人に影響を与えた聖書を(全部読むと長いのですが、少しづつであっても)自分で実際に読んで考えてみることは有用ではないかと考えています。

参考URL:
http://www.kidok.info/BIBLE/cgi/biblevlist.php?VR=6&FR=H
koria
質問者

お礼

わかりやすかったです。ありがとうございました!

その他の回答 (4)

回答No.4

天国や王道楽土的な考えは人々の思いの中にあるもので、 仕事を沢山してお金を沢山集めたら良い家に住んで、 ベンツに乗りたい、   という現実になる可能性のある思いとは違いますね。 人は死ねば肉体は土に返り、それと同時にその人の思いも そこで停止するわけですよね。 ただ、死の恐怖や死によって自分の存在が無になることの恐れ 身近な人の死による寂しさ、不安などから逃れるために作られた 思いが宗教という思想になったのではないでしょうか。 ただその人から受け継いだ肉体的な継承は遺伝子という形で残るし、 その人の思いも、その人と共に過ごしたり語り合ったり 話を聞いた方には受け継がれますよね。 先人に優れた方がいれば、その方の遺伝子や思いは 後世に長く残しておきたいと思うのが人の常であり、 その思いが宗教という画一化された形になったのではないでしょうか? それは文章という形で本に残したり、自分の発想やアイデアで 物を作って、後世に残したいという事と似ているのではないでしょうか。 ですからその対象がイエス様でもお釈迦様でなくても、 似たような思想が生まれていたのではないでしょうか。 辛いことの多い現世から旅立った後には幸せな天国が あって欲しいと思うのは万人に共通であり、それを 奪うことは誰にも出来ないはずですから、その信仰の 対象がイエスでもアラーでもお釈迦様でも自分のおばあちゃんでも 一緒ではないですか? 私が思うに日本人には 八百万の神的な思想が日本人には 合っているのではないかと考えます。 何処にも何にでも神様がいて、新しいものが出来たら それにも神様を宿らせる発想というのは、自然環境に 適応しながら狭い国土に住み、他国の文化を順応に受け入れてきた 大和人らしい宗教観(?)ですよね。 周りの環境や状況にあわせて価値観や思想が容易に変えられる 日本人は生き残るための術においては優れていますよね。 そんな日本人にも天国があってもいいと思いませんか?

koria
質問者

お礼

なんか勉強になりました。ありがとうございました!

  • yiwt
  • ベストアンサー率36% (250/694)
回答No.3

そもそも霊も天国もない、という考え方もあります。納得されないかもしれないですが。

koria
質問者

お礼

考え方は人それぞれですよね。

  • daidou
  • ベストアンサー率29% (491/1687)
回答No.2

民人の罪を背負ってイエスはが処刑されました それが十字架による磔刑だったのはたまたまです。 救世主による救済であって、別に十字架が救いをもたらしてくれる訳ではありません。 罪を背負って処刑されたり、十字架であったりというモチーフは、シンボリックに使われているだけで、キリスト教の本質から見れば枝葉末節だと思います。

koria
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

その場合はキリスト教そのものが存在しないのでそんなことを考えたり悩んだりする必要はなかったと思いますよ。

koria
質問者

お礼

最近キリスト教に興味を持った中での疑問の一つでした。

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