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仏教のお経について

ずっと疑問に思ってたのですが、お経って漢文ですよね。昔の人は漢文がわかってたからいいと思いますが、今の日本でお経を唱える意味は昔よりないんじゃないかと思うのですが。みんな呪文だと思ってます。漢文のまま 唱えるのはいいのでしょうか? もうひとつ疑問、そもそもお経を唱えて意味があるのでしょうか?お釈迦様が今の葬式とかを見たら、これが仏教の延長だとは思えないと思うのですが。もちろん落ち着くとか、先祖に供養の意を表すとかあると思いますが。根本的になんだろうと思います。

みんなの回答

  • Xolotl
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回答No.6

ブッダの入滅後、仏教はいくつかの部派にわかれ、現在は 東南アジアに広がった上座部仏教系(伝統派)と、中央~東アジアに 広がった大乗仏教系(新しい)だけがのこっています。 大乗仏教系の原典はもともとサンスクリットという言語で書かれています。これが中国の漢訳を経由して日本にきました。 有名な『般若心経』(starfloraさんが大意を引用されてます)などは 大乗の「唱えるためのお経」で、日用の呪文でありつつ、 高度な大乗仏教の理論のまとめでもあります。 大乗のこういうお経にはヒンドゥー教的な呪文を仏教化してとりいれた、 という側面もありますが、maggaさんが書かれたように上座部文化圏 にも、お守り代わりに日常生活で唱えられるお経はあります。 上座部のお経は古代の方言であるパーリ語で書かれており、 サンスクリットの経より古いかたちです。 上座部で信徒たちがお守りがわりに唱えるお経は「パリッタ(護呪)」 とよばれ、お経によって効果が違い、蛇よけなどの効果なども(笑) 慈悲の教えの入った「慈経」はなかなか良いものです。 ぜひ検索してみてください。 お守り代わりのお経というのは仏教にとって本質的ではないと思いますが、それで心が安まるのなら、良いのかもしれません。 心が落ち着いていなければ勉強も修行もできません。 お経がわかりにくいのは、昔は教育は口承で行っており、複雑な教えを 簡単に暗記して唱えるため、文言をきわめて簡潔にしていたから、 ということにも原因があると思われます。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.5

経典の大元は「パーリ語」だと思いますよ。 その何百年後に呪文的なものも生まれて(作られて)いますが、元の経典では呪文は禁止だったと記憶しています。仏法自体実践をといたものですから実践しなければ無意味でしょう。 もちろん意味が解って、実践しようとしなければなかなか心の修習にはならないでしょうね。 残念ながら日本にあるほとんどの仏教を名乗るお寺さんは実践をとかない呪文主義のようなものが多いのも事実。葬式仏教になっていますもんね。 スマナサーラ長老の書籍などを見れば元の仏教を垣間見れるかもしれませんよ。「テーラワーダ仏教の実践」もオススメです。

参考URL:
http://www.j-theravada.net/
  • starflora
  • ベストアンサー率61% (647/1050)
回答No.4

    お経は、漢文というよりも、翻訳された当時の中国語ですが、漢文だとも言えます(「漢文」というのは、『論語』のような、一種の暗号的中国語古典文章のことです。暗号的というのは、どう解釈するかを知っていいないと、色々解釈できて、訳が分からない文章だとも言えるからです。漢語仏典は一応、読んで意味が分かるように訳したのですが、それでも後になって、意味が不明になった個所が多数出てきていますから、一種の漢文とも言えるということです)。     お経を呪文だとか言っておられますが、それは、「呪文として扱っている」からだと思います。経典(スートラ)は、幾つかの種類に分かれますが、大体において、仏教の理論や、その教えを、講義調で述べたり、また途中で比喩が入って、段々展開して、物語になったり、教訓話になったりと、色々内容豊富で、普通、地の文章と、ガーターと呼ばれる、サンスクリット語では、韻文または詩であった部分から成ります。教義書でもあれば、思想書でもあり、不思議なことが起こる波瀾万丈の物語であったり、美しい詩でもあったりします。     お経の漢文の意味は、解説書が幾らでもあります。また現代語訳も多数あります。従って、お経に何が書かれているかは、解説書や日本語訳などを読めば、分かります。勿論、漢語を使っていますので、色々難しい漢字や言葉が出てきて、なかなか分かりにくですし、仏教の理論そのものも、かなり難しいので、なかなか理解しにくいですが、それは努力次第で、普通の人なら、お経に何が書かれているか、一年ぐらい勉強すれば、大体分かるようになります。     お経は、意味を知って唱えるとよいのですが、意味を知らないで、呪文のように唱えるのも別に構わないと思います。ただ、意味不明の呪文を唱えて何の意味があるのか、と思われるなら、意味を知ることは上に述べたように、そんなに難しくありませんから、意味を知って唱えられれば、お経は、仏教が、この世界や人間をどのように考えているのか、色々な手法を用いて解き明かし、論じ、説明している文章だということが分かります。     「世のなかの人は、自分というかっことした何かがあると思っているが、それは錯覚である。自分というものは、実は、他の人や色々な事物との関係で、いま、仮に、かっことしてあるように思えるだけで、次の時には、すでに今の自分というのはないのである。……」とこのようなことを、或るお経では述べている訳で、これを意味を知って読むと、これがまさに「仏の教え」であり、その思想的・信仰的な深さや意味に、大いにある人は納得し、教えの崇高さに感激・感動するということになります。無論、そんな内容は納得が行かないという人もいるでしょう。しかし、キリスト教の『聖書』を考えればよいのですが、『聖書』に記されているイエスやパウロの言行を読んで、納得し感動し、心動かされるからこそ、キリスト教に入信する人がいるのだとも言えます。だから、仏教の経典であるお経の内容を知って、魅力や意味を感じない人は、仏教を棄てればよいと言うことになります。     これは、思考での教えとしての仏教の体得のためお経を読むということですが、お経の一々の言葉の意味は知らなくとも、それは、例えば、人は必ず死ぬものであり、しかし、良い行いをした人は、観音菩薩のおられる清浄な世界に生まれ変われるのであり、何も怖れることはないということであるという教えを信じ、そういうことを述べているのが呪文のようなお経であり、このお経を唱えると、その教えに近づくことになり、観音菩薩がますます身近に感じられるようになるのであるということなら、一々の意味を知らなくとも、お経を唱えることには、唱える人なりの意味が見出せるでしょう。     >> もうひとつ疑問、そもそもお経を唱えて意味が   >> あるのでしょうか?お釈迦様が今の葬式とかを   >> 見たら、これが仏教の延長だとは思えないと思   >> うのですが。     これは、お葬式の時に坊さんが唱えるお経のことを言っておられるのだと思いますが、無論、釈迦牟尼の教えからすると、日本の現代の葬式は、仏教とは関係のない、呪術行為だとも言えるでしょう。しかし、仏教も歴史を重ねて、その教えや思想が展開して行ったのであり、また、宗教は、教団組織ができて、教団宗教になると、教えのために教団があるのか、教団の存続のために教えを説いているのか分からないような状態に一般になるようです。世界中の宗教が、歴史的にすべてこういう過程を踏みました。キリスト教では、イエスは、「汝の敵のために祈れ」と教え、また、中世の「清貧論争」ではありませんが、「富める者が天国に入るのは、駱駝が針の穴を通るより難しい」と言い、清貧を確かに説き、実践しました。しかし、キリスト教徒を自認する米国大統領などが、「我々の敵を根絶するのだ」などと絶叫し、大統領も含め、政治家たちが誰も彼も、多く、キリスト教徒でありながら、清貧などとはとても言えないという事実があるのです。またイスラム教にしても、ムハンマドはコーランのなかで、「人はみな、イスラム教徒として平等である」と説いているにも拘わらず、イスラム教国を自認する王国に、世界的大富豪の王や王家の一族などがあり、富に満ちており、その他方、隣の国で、同じイスラム教徒が何十万人も、飢えで苦しんでいるというのもおかしな話です。     しかし、日本の仏教が堕落しているとしても、それは或る一定の社会的役割を果たしているのも事実です。実際、僧侶が来て、葬儀を行い、儀式を執り行うと、取りあえず、葬式などは、社会的行事として完了し、死者が「死んだ」ということの実感を関係者にもたらすでしょう。こういう形の社会的儀式が、形骸化しているというのも事実かも知れませんが、では、人はいかにすれば形骸化していない「教え」に出会うことができるのか。また、何によって自己の心の幸福を得るのか。人生の満足を得るのか。生きる意味を確認できるのか。それは自分が探し求めることでしょう。仏典を読んで理解して、その教えに満足できないのなら、別の教えを求めるのもよいでしょう。また、いまは理解できなくとも、また今は意味を感じられなくとも、お経を唱えていれば、そのうちに見えてくる、あるいは身近になってくる、ある心境があるかも知れないと考えることも重要でしょう。     つまり、社会の状況は色々にあり、宗教の教えと教団や僧侶のありようの矛盾なども色々あるでしょうが、結局、問題は、自分は、どの道を選ぶかということでしょう。仏教にもお経にも意味がないと思われるなら、棄てればよいだけの話です。しかし、棄てられないなら、その部分に、何かの意味があるのでしょう。また、今は棄てても、十年後、二十年後、三十年後には、またものの見方も、世界の見え方も、人生の見え方も、自分自身の見え方も変わるという可能性を考えるべきでしょう。棄てた仏教のお経のなかに、実に、宝石のような素晴らしい言葉、素晴らしい教えが語れていたということが、未来には分かるかも知れません。     お経を唱えるのも唱えないのも、貴方の主体的問題なのです。     追記)お経を長年唱えて来た人は長生きすると言われています。また健康でぼけて来ないとも言われています。無論、統計的に根拠があるかどうか知りませんが、理由としては、お経を長年唱える人は、規則正しい生活を行っていることが多い。お経を唱えていると、心が平静になって来て、あまり興奮することがない。興奮して怒ったりするのは、短命の元だというのは、統計的に確認されていると思います。(怒ると、心臓を含め、全身が緊張状態になり、血圧が上昇し、身体のシステムに不均衡や無理を強いるからです)。また、お経を規則的に唱えるのは、一種の呼吸法をやっているようなもので、内臓や神経系に適度な刺激を与え、リラックスさせることになると言うことも言われています。     

hageup
質問者

補足

皆様 丁寧に回答ありがとうございました! 御蔭様で、いろいろ発見もできました! 私がこの質問を書いたのは、教会に行った事がきっかけでした。 私の家は曹洞宗ですが、友人に誘われてとある教会に行きました。 ミサの 神がゆるしてくださる などの言葉や 日本語訳された聖歌 や 教会にくる近所の人々の助け合い など いろいろと感動しました。 私が知っていた仏教にはない 分かりやすい素直な感動と発見がありました。こころが楽になるのを感じました。(この教会は特に初心者に丁寧にミサを行なってくれるところでした。 もちろん活気のあるお寺もあるとおもいます) 誤解を恐れずに言いますと、 率直に感じたのは 「近いなあ 仏教よりこりゃ すくわれやすいんじゃないか?」ということです。教理は色々あると思いますが、こころが落ち着く という部分でのことです。(私の言ってる事、分かりにくいですね、、、) もうひとつ、私は ひろさちやさんの 般若心教の現代日本語訳した本を読んだ事があります。 とてもおもしろかったし、感動しました。それと同時にもったいないなー と感じました。こんなに内容があるのに、なんでわざわざ意味の通じない漢語で読むんだろうって思いました。(ちなみに法華経の現代語訳はいやになりました。神憑かり過ぎて、、、) starflora様方がおっしゃる通り、仮にも仏教徒なら お経を学ぼうとスべきだと思うし、いやなら自分にあった他の宗教を選べば良いと思います。でも、もったいないなー と思うんです。 お経を現代日本語で葬式したら、雰囲気でないかもしれませんが、悪くないと思うのですが。 また、私と同じような事を感じて、分かりやすく布教しようとするお坊さんがもうすこしおおくてもいいんじゃないかなと感じます。 私は22さいなのですが、仏教というと お年寄りばかり、、、 ということや 新興宗教に心引かれる若者が少なくない というのは、仏教の変化が時代に追い付いてないからではないから と少し感じます。  宗教はお釈迦様の時代から変化してきて今に至った、、、 なんか士農工商の時代で変化が滞り気味な気がする。 例えば 座禅とかにいってると ものずきだね、、、 と言われる。座禅って鎌倉時代はもっとモダンでかっこいいもの だったと思う。 というようなことです、、、  変わらずにあっていて欲しいものっていうのもありますけど、こういう感想を持ってしまいます。

  • m_chappy
  • ベストアンサー率29% (32/107)
回答No.3

良し悪しを問うているのなら私にはわかりませんが、ちょっとアドバイスめいたことを書かせてください。 まず、仏教は他の宗教に比べて寛容であったということで、広まっていくにつれて形を変えて行ったということです。日本に伝わるに至って、そして伝わってから更に、初期仏教とは全く別モノになってしまっていることを認識しておく必要があるでしょう。 さて、お経ですが、もとは口述されたものなので、文字としての記録はありません。お釈迦様(仏陀)の頃から数百年たてから記録されたもので、インドで行なわれました。従って、原文は漢文ではありません。中国に伝わってから漢訳されたのです。漢訳に当っては、音を再現させるために漢字を当てた部分と、意味合いから漢字を当てた部分が混在するようです。そして、日本においては、漢訳された経典を日本語訳しています(文語体ですが)。意味が分かりにくいのは、庶民に分からしめる必要性が乏しかった宗教だからでしょう。 次に、唱える意味ですが、これは解釈というか信念というか信仰というか・・・。そもそも仏陀やそれに変わる成仏したモノの言葉を伝えるだけのものですから、その言葉自信に力があるとは思えません。教えであるわけですから、意味を解釈してナンボの世界でしょう。もっと言うと、経典によって矛盾した内容もあるようです。宗派によって崇める経典が異なる理由の一つはここにあります。因みに、本来仏教では僧侶は葬式を扱いません。これは日本独自の制度です。 また、先祖崇拝の思想は、仏教本来の考え方とは関係無かったと思います。何せ、死んだらすぐに生まれ変わる(輪廻転生)のが仏教の考え方ですから。 最後に蛇足ですが、仏教にも経典がありますが、西方各宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム)とは決定的に違います。この3宗教は基本的に同じ神に対しての信仰(契約)ですが、仏教は神を定義しません。従って、全知全能のモノは存在せず、法則だけが世界を支配し、その法則を説くのはお経だったかに思います。

  • noribou11
  • ベストアンサー率45% (143/314)
回答No.2

確かにお経って何を言っているのか分らないところがありますね。 でも、それは昔も今も同じです。というより昔の方が漢字が読めない人の 割合が高いから、教典を見てなんとなくでも意味が分るのは現代人の方ですね。 宗派によっては「南無阿弥陀仏」だけ唱えていれば救われるというもの ありますよね。つまり、教典を教科書として理解する必要はもともとない ということです。教典を熟読し、理解しなければいけないのは僧侶なんですね。 キリスト教徒だって聖書を熟読している人は少数派ですよね。でも、 中身はある程度知っている。それはミサにでかけるからです。ミサにでかければ そこで神父さんが聖書の一説を引用して説法をします。本来は仏教も同様で 僧侶がお経の中身を噛み砕いて説明してくれます。田舎に行けば檀家の 説法会がありますからね。 今の日本は法治国家であり詳細な法律が定められています。我々の生活だって 法律に縛られているんですが、法律の中身なんて知りませんよね。 スピードは出してはいけないことを知ってても、それが道路交通法の第何条に 違反しているかなんて普通の人は知りません。お経だって同じことです。 殺生はいけないことだと知っていても、それを破ると地獄のどういう場所に 落ちて、どういう苦行をするかなんて具体的なこと知らないですよね。 テレビで弁護士が法律の解説をして「これはいけない」と発言がありますよね。 イメージ的には僧侶と弁護士、教典と法律書ていう感じいいと思いますよ。 教典は道徳の教科書であり法が整備されていない時代では最大の律だったんです。 僧侶や神父は教典を引用して説法をし、民衆に道徳心を訴えていたんですね。 科学的には読経中は精神が集中しやすいトランス状態になるため リラックスできるなんて効果があるんですね。まあ、信仰心でありがたいと 思う人もいれば、眠たいという人もいるんでしょうけどね。

  • hanbo
  • ベストアンサー率34% (1527/4434)
回答No.1

 同感です。お経を聞いていると、ついつい眠たくなってしまいます。まあ、最近では「儀式」みたいなもので、意義とか必要性とかを論ずることなく、過去の延長なのでしょうね。  欧米を見ると、宗教=生活なのです。信じている宗教の教えが、生活に反映されています。これが、本来の宗教であり信者なのだと思います。日本はどうでしょう。宗教は、葬式のためだけの宗教のような気がします。神棚があり、クリスマスを家族で祝い、葬儀には数珠をもって参加する・・・理解できません。  まあ、宗教とは何かとう点から論じなければ、解決はしないでしょうし、宗教にたずさわる方々も宗教者とはどうあるべきか、互いに根本から見直さなければ、この問題は解決しないでしょう。  もちろん信仰の自由は保障されての、私のアドバイスでした。

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