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現代のいじめについて。
少年犯罪、自殺などテレビでよく見かけるようになりました。 そこには必ずいじめと言う問題が見え隠れしています。 メデアも特集を組み少年少女たちの叫びに耳を傾けようとしているテレビを見かけることが多くなりました。 いじめはもう日本の青少年における社会問題と感じます。 私は30代前半、昔もいじめはあったけれど(実はいじめっ子でした)成長すれば止まるものであった気がします。私がいじめたのは小学生時代までです。 中学生になればみんな大人になって行き、いじめというより気持ちの行き違いからくる、喧嘩であった気がします。喧嘩であるから誰かと仲が悪くなっても、別な誰かが助けてくれるという感じで、救われない精神状態にまで追い詰められることはなかったと思うのです。 まして高校大学は一生の友人作りの場、いじめなどまったく目にしませんでした。 現代はなぜ、いじめがこうも広がっているのでしょうか?大人が学校がいじめはだめだという教育をしないからですか? みんな自分の子供はいじめにあってほしくないと思っているはず、だから幼い頃より人をいじめてはいけない、差別してはいけない、仲良くと教えていると思うのです。教育はされている気がするのです。 なのになぜですか?今の若い人たちが昔の人間に比べ精神的に傷つきやすくなっているのでしょうか? いじめが原因で、大人になっても引きこもったままという特集を見るたびに胸が痛くなります。けれど私には原因がわからないのです。そこまで人を追い詰めるいじめを誰も止められないものなのか??? 私が分かっていないだけですかね・・・今がどうなっているのか、何が悪いのか教えてください。。
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ほんと難しい問題ですよね。 私自身、幼い子供を持つ親として、やはり我が子には「被害者」にも「加害者」にもなって欲しくないですし。 しかしこのご時世、なかなかに「普通」に育てる事こそが難しいようにも感じます。 だからこそ、子育ての難しさ・複雑さを知るが故に「生み・育てる」事に躊躇する人達が増え、結果「少子化」が進むのかもしれません。 少子化が進むと、やはり親にとっては大切な1人っ子である我が子を執拗に過保護にならざるを得なくなり、的外れな愛情を注ぐ結果、ひきこもりやパラサイト族といった心身ともに成長しきれない人間が出来上がってしまうように感じます。 「いじめ」に関しては、何も子供だけの世界ではなく、大人達が生きる「社会」「会社」でも同じですね。 要は「いじめ」の種類が昔のそれとは随分変わってきたのでしょうか。 今はこうして「ネット」が一般的となり、誰もがみな「心」を通わさなくとも容易に1つの共通項によって結びつく事が可能な時代です。 一見便利で素晴らしいネット社会ですが、やはり「対人間」としての関係を築けない人間が多くなり、コミュニケーション能力が低下しているのでしょう。 最近の犯罪は、怨恨というよりも、突発的・衝動的(通り魔的)なモノが多く、これは非常に怖い事でもあります。 怒りの感情が瞬時にオンになり、それを抑える事が出来ない・・・自己コントロール能力の欠落した人間が増えているのでしょう。 あらゆるものに満ち溢れ、何でもお金さえ出せば手に入り、リセットボタンを押せば何でも最初からやり直せる・・・まるで実社会での日々を「ゲーム」の世界と錯覚しているかのような、そんな感覚しか持てない人間が多くなってしまったのかもしれません。 やはり生育環境に問題があるのでしょうね。 核家族化が進み、年金が充てにならないこの世の中、親は我が子との関わりよりも目先の生活ばかりに気を取られ、肝心の親子のコミュニケーションが不足し、子供の相手をゲームに任せ・・・。 そんな社会がこういった「犯罪」や「いじめ」を更に増強させているのかもしれません。 あくまでも私の個人的意見でした。 長々とすみません。
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- excelmania
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何だかいじめと言うのがご質問者様の周りには存在しないのかと思ってしまいますが、 現実には子ども社会に限らず、大人社会でもいじめは厳然と存在してますよね? 子どものようにあからさまに派手にはやらないだけで、集団で個人を疎外する図式は割とあるものです。 大人の場合のいじめは、表面化しづらいですし、している側にもされている側にも いじめという意識が薄い気がしますけどね。 子どもと言うのは、意識してそうしてる訳ではないのですが、非常に大人をよく見ています。 大人が自分とは違った人間を疎外したり、自分以外の人間を蔑むことで暗い満足を得ていたり、 自分よりも弱い人間に当たり散らしていたりするのを見れば、子どもだって真似します。 いじめる側の子どもが、実は家では虐待されていた、とか、放置されていたと言うケースもあります。 勿論、反面教師として自らはやらない、と言う成長が出来る子どももいるかもしれませんが、 それだけの自我が確立するには、やはり時間がかかると思いますし。 子どもが荒むのは、それだけ大人の社会が荒んでいることの現われだと思います。 また、現代は価値観が多様化したが故に、自己を確立することが難しい時代になっています。 レールのようにすることが決まっていて、自分はすべきことをしていると感じることで自信を持ったり、 将来に希望を持ったりすることが容易ではなくなり、自己の不確かさと言う不安を抱え、 はけ口のないストレスを抱えて、余裕がなくなる人間が多いのも事実だと思います。 時代の変化の中で、それに対応しきれずに渦巻くものが多くの個人の中にあるのは間違いないと思います。 今の若い人が昔の人間に比べて傷つきやすくなったとか脆くなったとか、そう簡単に言える話じゃない。 あなたの知っている昔と、今では時代背景が全く異なるのです。 例えば、バブル期に青春時代を過ごした人と、不況の一番厳しい時期に青春時代を過ごした人では、 全く同じ教育をされたとしても(まあ実際問題あり得ませんが)、考え方も感じ方も全く違う筈です。 その時代に育った人間特有の感じ方考え方と言うものがあるのですから、 それをあなたが自分の育った時代の考え方を引っ張り出して、なぜ、どうして、理解できない、と 言ったところで、問題解決には何ら資するところはないと思います。 大事なのは、今の人間の姿をありのまま理解しようと努めることではないでしょうか? 昔はああだった、こうだった、ばかり言っても仕方ありません。 過去と現在を客観的に比較することは役立ちますが、過去を美化し現在を批判するだけでは何も生まれません。 それに、お題目のように、昔と同じように「いじめはダメよ」「みんな仲良くね」と教えるのではなく、 今に生きる人間に即した視点から、様々な物事を教えていくことが必要です。 そのためには、現代社会に生きる人間の現状をありのまま理解することから始めるしかないのです。 それこそ、いじめた側もいじめられた側も、引きこもる人もそうでない人も、いじめを放置する側も止めに入る側も… ただありのままに受け止め、それぞれの抱える問題の解決方法を考えなければ、 所詮自分の都合で相手を断じて、理解しようとしていないのと変わらないのです。 ご質問者様にはその視点が弱いように感じます。
お礼
ありがとうございました。
- sobamoti
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戦争も何かしら原因のない限りは起きません。 それと同じで、いじめにも原因があるはずです。 私が高校のときいじめられて学校を辞めた人がいました。 人の悪口ばかり言ったり、ウソをついたり、人のものを盗んだり・・・。 。でも、自分が悪いことをしたという自覚がないのか謝りもせず、先生や親にはいじめられてると言っているのです。 誰だってそんなこと言われたらおこりますよね。 味方につくほうがどうかしてます。 いじめられている人のとらえ方、家での教育を改善しなければどうにもならないと思いますよ。
お礼
ありがとうございます。このご意見は勇気の要るのもだったと思います。 自分が原因ではずされるということは往々にしてあることなのではないかと思います。もちろん理由なきいじめの方が多いのではないかと思いますが。。 たとえいじめられる側に原因があり嫌われたとしても、それを追い込むのではなく、話し合い改めさせるということが出来ればと思うのですが。。。これは奇麗事なんですよね。更生するのは時間のかかるもの、言われるように家族しか出来ない教育なのだと思います。だからこそ家庭内の教育が大切ですよね。 その高校時代の同級生が、誰かに出会いあらたな自分をきずいていけていると祈るばかりです。
- suvalu
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人間いや生き物はすべて勝手に出来ておると思います。そして自分を正当化する為に知ってか知らずか葛藤しておるのではないでしょうか?完璧などありえないのに・・感情が有る限り避けられない問題ですね。そして自らもその一人であります。愚かであります。
お礼
ありがとうございます。 私もそう思います、人間はおろかな生き物。。。 差別などはどんな教育を受けてもなくなりはしないでと思います。 しかしここまで大きくなった社会現象を、このまま人間って愚かだからとほっとくわけにないかないのではないかと思うのです。 私もそうです。愚かな動物です。
- huyumi
- ベストアンサー率14% (108/746)
拝見しました。 私は苛められた経験の人間です。 苛めていた側の人間だった人がこのような問題提起をする事は大事な事です。 但し、ご相談を読んで見ると「苛められている人間は 昔よりももっと弱いんじゃない?」と見えてしまいます。 私もそう感じる時がありますが、保護をされる場所が 昔より広がったからなのではとも思います。 ある意味、それは人によっては「過保護」と捉えられるかもしれません。 加害者は自分より弱いから苛める。 加害者の殆どは「人の持つ個性」を認めず その「個性」を自分の都合で排除します。 (自分が出来る事が出来ない子を「全てがダメ」と 決め付けるのが基本のイジメですよね) 被害者は自分の弱さを充分に理解しながら立ち向かいたくても 周りは助けてくれない(ように感じるのもある)のです。 周りはただの「傍観者」です。 関わったら今度は自分が標的にされる、その恐怖を常に持っています。 けれどこれが本当の意味での「イジメ」なんですよ。 加害者プラス傍観者に苛められるわけですからね。 だから引きこもるのです。 これは大人になっても変わりません。 学生から社会に出ればそれなりの対応の変化はありますが 加害者性質を持ったままの人、被害者性質のままの人 傍観者に徹する人ときれいに分かれます。 基本は変わらないのです。 お尋ねします。 あなたはもし、目の前で苛めを受ける人間を見たら 今はどうされますか? 原因を聞いて「当然」と思いますか? 苛めを受ける人間の苦しみを理解する努力をしますか? それとも「傍観者」になりますか? それと。他のご意見でイジメをしていた人間に何が判る、のご意見がありますが ここでそれを言うのは残念に感じました。 被害者の立場だからこその言葉ではあるのですが せっかくの質問なのに分かり合えないままになると思いませんか?
お礼
ありがとうございます。 お尋ねの件なのですが、何せ私の今生きている周りでそのようないじめが存在しませんので、答えにならないと思うのですが、意見の相違や食い違いはもちろん多々あります。喧嘩も存在しますが、これはいじめとはまったく別なものです。 原因ををきき、どちらに非があるかは考えなくてはならない事だと思います。 その非を、意見として伝えなければならない場合伝います。友人として解決や仲直りの手助けをすることは大切なことであると思うし(求められた場合)。またその逆もありえて、誰かが自分の非を指摘してくれた時は感謝すると思うのです。 当事者で解決すべきと自分が感じたのなら、もちろん「傍観者」となります。 この質問は、まったく知らない人がいじめられていた場合でしょうか? 的外れなお答えでしたらすみません。。。
- koisikawa
- ベストアンサー率10% (66/603)
答えになってないかも知れません。 「イジメ」は職員室の中にもあるんですよ。 学校をよく見てください。 子どもがイジメに合う学校には、必ず、職員間のイジメがありますよ。 そして、イジメのない学校に勤務したことがありません。 「イジメ」の本質を教師自身が学ぶ必要があり、また、教師の資質のひとつに「人格」を入れる必要がありますね。
お礼
私の友人は学校の先生が多く、大体もう中堅の年になっています。やめた友人も多いです。見ていると気持ちが優しいがゆえに続かないと感じます。 思えば中学に先生はギスギスしていたように感じます。尊敬できる大人(先生)は少なかった。 まあ、そこから学んだものもありますけど。。。 先生たちも自分の家庭や、守るもので必死なのでしょうか? なんだか悲しいですね。
長引く不景気が産んだ副産物でしょう。 会社から親へ、親から子供へ、子供から子供へ イライラや不平不満の解消のひとつがイジメや 虐待だと私は思います。
お礼
ありがとうございます。大人が、大人でなくなっている気がします。子供のような大人が多くなったといいますか。。。 虐待の悪循環は連鎖につながることを誰しも知っているはずなのに、自分のところで断ち切る強さがないと感じます。みなさん、そんなにも辛い人生なのでしょうか。。。 私が恵まれてるのか、なんだか分からなくなってきました。
- ginga3104
- ベストアンサー率23% (510/2208)
皆さんも仰っているように、子どもの「いじめ」は大人社会の縮図と言っても過言で無いでしょう。 例えば、陰湿ないじめの代表が、「無視」です。 ターゲットを決めたら、その人が居ないかのごとく振る舞う。これは、無視する事が如何に精神的に堪えるかを子どもたちが知っている事を示しています。 誰が行なっているのか?それは、親が行なっています。親が子どもに対して、夫婦間で、親が祖父母に対して。子どもの一番身近な保護者達が日々行なっている。だから、子ども達はその効果を良く知っています。 更に、みんなで無視する。これは、社会です。公共の場で、はみ出した人(例えば、酔っ払い)が居ても、見ぬ振りをする。触らぬ神に祟り無し。赤信号、皆で渡れば怖くない。と。 個人的に、「いじめ」は無くせると思います。その為には、単純に差別はいけないとか、皆仲良くと言うのでは無く、個の差を認め、それを活用して公を創り上げていく社会にしなければ成らないと思います。 そして、何よりも大切なのが夢だと思います。日本の夢。それを今の若者に大人、特に政治家は語らなければなりません。 日本は戦争で多くの犠牲を払いましたが、世界に冠たる経済大国になりました。それは、勿論、アメリカ合衆国の友好国(属国)としての恩恵を存分に受けたからですが、何よりも多くの国民が己の為よりも広い意味での子孫により良い環境を残したいと言う欲求が有ったからだと考えられます。 先人たちは頑張りました。お陰で、現在の我々の暮らしは安全かつ清潔な暮らしを送れています。(今の若者のファッションはその安穏とした生活への反抗であることは見れば如何に我々の暮らしが快適を示しています) 今度は、我々の世代が次の世代に「夢」を提示しなければなりません。 それは何でしょう?勝ち組みに入る事?セレブへの仲間入り?常任理事国になる事? 日本と言う国を考えた場合はどうでしょう?資源の無い国の進むべきは決まっています。創るしか有りません。工業からITまでの技術、娯楽や思想など文化などを創り上げ、それに誇りを持って世界に売り込んでいく。 そして、資源に頼らない経済力。軍事力に頼らない政治。異なる宗教観を融合・共存する為の教育。こういった、素晴らしい日本を世界に発信し、共感・賛同を得ていく。 上記は個人的な「夢」ですが、こういったものを次世代に提示し、自分がそれに対して邁進すれば、ご心配のような「いじめ」は減少し、いずれは、単純に子ども達の個々の差を見極める為の当然の衝突として、子どもから大人への成長過程の有意義なものに変わっていくのではないかと考えます。 単なる一大人として、私が今出来る事は、自分の考えたことを堂々と周りや子ども達に伝え、己の出来ることを粛々と行なう事だと思っています。 nobujunさんの今回のご質問もその一環だと思うのです。ただ、それを理解するだけでなく、その問題の解決を、誰が?では無く、自分がどうするか?如何に自分の問題だと考えるがポイントなのだと思います。参考になれば幸いに存じます。
お礼
ありがとうございました。 皆様の意見を呼んでいくうちに、理解することの先に、自分が何が出来るのかを考えなくてはと思うようになりました。
- kerozirusi
- ベストアンサー率45% (136/297)
まず最初に辛口かもしれませんが、あなたには分からないと思います! そう、所詮イジメてた側の人ですから…。 #1さんの感じてらっしゃる事に近いですが、僕もイジメにあってた人間なのであなたの文章を、 「よくもまぁ聖人ぶったというか綺麗事をというか…」って感じでカチン!を通り越して虚しい気持ちで読んでました。 イジメは何も"青少年"だけの問題なんかじゃ決してありません! 成長すれば止まるなんて勘違いも甚だしいです。 人ってそんなに簡単に変わりませんし、変われません。 あなたは小学生までだと豪語していますが中学生以降もひょっとしたら"イジメてた"のかもしれません。 イジメというのはともすればセクハラに似ていて受け手の主観に依るところも多分にあるからです。 また、実際に本当にいじめてなかったにしても"傍観者"としていることも間接的な、ある意味直接のイジメよりもたちの悪いものだとも言えます。 あなたがそうだったと勝手に決めてかかってるのではありませんが、何が言いたいかというとそれだけなかなか表に出て来づらいものだということです。 当事者以外がイジメに気付くというのは逆に言うとよっぽどのことなんです! 高校や大学時代にイジメがなかったと明言していますがかなりマユツバものだと思わざるを得ません。 よく「イジメられる側にも問題があるのでは?」という人もいます。 この言葉を何も全否定する気はありませんが、だからといっていじめてもいい理由になんかなりもしませんしね、絶対に。 僕は逆にあなたに問いたいです。 あなた自身は大人に、親に、学校に「イジメはダメだ、差別してはならない、仲良く」と教育されたのですか? されてなかったからイジメたんですか、小学生時代に。 それともされてたけどイジメてたんですか? あなた個人レベルからして"矛盾"のようなものがあるのに社会の矛盾とか歪みを理解するというのは並大抵のことではないのではないでしょうか?
お礼
気を悪くされたのならすみません。 私は幼き頃より、教育はされたと思います。しかし、私の成長が遅く小学生では、人の身になるということが教えられても理解できなかったのです。それを大人が怒り、怒られ怒られ反抗し怒られ成長したという感じです。言葉の理解と言葉の意味の理解は違うものであり、時間のかかるものだと思います。 中学高校大学と、私がいじめにきずかなかっただけかもしれません。。しかし、本当になかったとも言えるのです。高校は女子高のカトリック、祈ることや真の正しさを常に教えられ、また、問題が起こればシスターや神父さまに相談できる体制が整っていました。 だからこそ、完璧とまではいかなくても、大人ががんばればせめて思春期の子供にそういう環境を与えてあげれるのではないかと思うのです。
補足
(すみません、パソコンの調子が悪く長い文章を書いていると、途中で落ちてしまうので、2つに分けました。お許しください。) 続きです。 私は女性です。こんなことを言うとまた怒られると思いますが、女性社会より男性社会は厳しいと感じます。男女で、物事の捉え方の差はあると思います。 今、私たち個人が子供たちに対して何が出来るか、知りたいと思います。 いじめはなくならない、とは正直思います。でも、小さくすることは出来るのではないかと感じます。 また奇麗事とつらいのですが。。。。 ありがとうございました。
- maddroid
- ベストアンサー率25% (15/59)
良い人間関係を構築する能力は10~12歳の間に強化され、それを無くして思春期に突入すると、もはや手遅れになるのだそうです。 なので小学校時代のいじめと高をくくっていた物が、誰かに致命的なダメージを与えていた可能性は多分にあります。 いじめというのは誰かを憎くてやっているのではなくて、ストレス発散のためにやっているのです。親が子に、子がさらに弱い子に。家庭から学校に。 中学でも高校でも大学でもストレスはあるし、家庭のストレスは年齢とは関係有りません。であれば発散する相手は自分より弱ければ誰でもいいわけです。幼児へのいたずらや老人に対する暴行が、その最たる物です。 いじめられている人間が、それを誰かに発散することで解消したいと思わなければ引きこもるでしょう。それは馬鹿な選択でしょうか? いじめは暴力の連鎖です。「いじめ」という言葉は、おおげさでもなんでもなく「暴力」と書くべきものなのです。DVの例だと「罵倒」も「虐待」に含まれます。 不景気という状況で親のストレスが解消されない分、子のストレスも継続されるようになったと捉えることもできるかもしれません。 とはいえ、基本的にはモラルの問題です。「いじめ」「差別」、すなわち他者に「暴力」を振るうことがまともじゃないことを、教育できなければ意味がありません。でも認識の差は広がる一方だと思います。 力のある人はより傍若無人になり。これはいじめられる側の問題でしょうか。 正しさが尊ばれないことに、絶望する以外どうすることも出来ないと思います。
お礼
最後のくだり納得しました。確かにそうです。 「暴力」がまともでないことを教えなくては正しさが尊ばれなくてはと本当に思います。 人間関係において弱いものに強いことは、恥ずべきことだったはず。。。 幼きものは守るもの、老人はいたわるものだと教わったはず、それが出来なければ恥ずべき人間と嫌われたはず。。。。 貧乏でも楽しい我が家と言うのは幻想に近いのでしょうか。。。 もっと考えて見ます、ありがとうございました。
>大人が学校がいじめはだめだという教育をしないからですか? 日教組組合員がいじめていた生徒を処罰したところ.教育上問題のある行為であるとして.教育委員会は処罰しました。この処罰の違法性を追及した裁判で.最高裁は日教組組合員の訴えを退けました。 しがって.現行日本法令状.学校で「いじめを推進すること」が法律状義務付けられています。 学校内でいじめがいかに正しいことであるかを学んだ生徒たちは当然他デモするわけですから.いじめは法律上認められた正当な権利の行使です。 つまり. >そこまで人を追い詰めるいじめを誰も止 めることは.現行法令上違法行為となります。
お礼
ありがとうございます。 しかし、権利の行使と言われても解決にもならないのですが・・・
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お礼
ありがとうございます。 私も同感です「被害者」にも「加害者にも」なってほしくない。どちらも事件となった場合深く傷を残すと思うのです。反感をもたれるかもしれませんが、長崎での少女同士での事件はどちらの親御さんもどんなに心を痛めて苦しいだろうと思うのです。 人は加害者にも被害者にもほんの掛け違いでなってしまうと思うからです。 私の周りに友人は、真剣に子育てを考えています。常に悩み、伴侶と話し合い、子供に諭していく。思うようには子供たちは育ってはいきませんが、時間がかかっても必ず最後には理解できる気がするのです。 親に余裕がないのですかね。。。でも、親が余裕なくても必死になって子供を食べさせていく(たおえ八つ当たりされても)その背中だけで成長してくれないものなのでしょうか。。。