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新潟県中越地震について
新潟県在住のものです。 昨年大きな地震がおきてから7ヶ月がたちました。 その後各地で地震が発生したり、大きな事件、事故があり、全国的には歴史の中の一コマになりつつあるような気がします。 しかし激震区に住んでいた方々は豪雪のため倒壊した家屋がまだそのままになっていて、仮設住宅生活を余儀なくされている方が多数いらっしゃいます。 そこで皆さんに今、中越地震についてどのように思っていらっしゃるかお聞きしたいと思い投稿いたしました。 「そんなことがあったね」や「ボランティアに行ってきた」でも何でも結構です。 皆さんの記憶の中にどれくらい残っているか教えていただきたいと思います。
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質問者が選んだベストアンサー
地震発生当時、千葉県の成田空港で仕事をしていました。少し大きな揺れだったのでその時は「よくある小さな地震かな」程度に思っていました。 帰宅後テレビをつけてみたら新潟で大地震の報道が。新潟の揺れが成田まで来たのですね。それ以来ちいさな地震でも「どこかで大地震か!?」と思うようになりました。新潟県の地震で私の考え方が変わりました
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- lynnette
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実家が新潟にあります。現在留学中です。 地震については、ヤフーニュースで知りました。すぐに実家に電話したかったのですが、時差等の関係で、数日後まで家族の安否は不明でした。幸い、私の実家は震源から遠いところで(場所は察してください)大丈夫でしたが、父は震源地の方に4年間単身赴任をしており、その年かえってきたばかりで、もしもう少し早かったら、もしもう一年居ることになっていたら、巻き込まれるところでした。私自身、震源に近い市の高校に通っており、その高校も被害にあいました。私自身、新潟から何万キロも離れたところに住んでいますが、そのときはとても怖かったです。翌週になると、ニューヨークタイムズに記事が載っており、その記事を部屋の壁に先月まで貼っていました(引っ越したので現在は貼っていません)。 自身の何年も前から(私の周りだけかもしれませんが)、そろそろ地震がきそうだなんて話がありました(新潟地震から40年もたつので)。それが、とうとう起こってしまったという気持ちでした。というより、まさか起こるなんて、と信じられませんでした。 やはり、中越地震は私には忘れられません。あの時ほど、実家に帰りたいと思ったことはありません。
お礼
御回答ありがとうございます。 海外にいらっしゃったんですね。 実家に帰りたいけどどうにもならない、御心配も大変なものだったと思います。 確かに新潟地震から40年、そのような話しありましたね。 しかし実際おこってしまい、あんなにひどい地震とは思いもしませんでした。 今でも信じたくない、夢であって欲しいと思う時があります。
補足
皆さん、御回答ありがとうございました。 そろそろ締め切らせていただこうと思います。 アンケートですので、皆さんの御回答がそれぞれ「良回答」だと思っています。しかし皆さんにポイントを差し上げることができず、大変残念です。 公平を期してポイント無し、とも思いましが、それも失礼ですので、御回答の早い順にポイントを差し上げようと思います。 先に申し上げたとおり、みなさん「良回答」と思っています。 lynnette様、補足欄を皆さんへの御礼に拝借した失礼、お許しください。
- syksyksyk
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こんばんは。東京在住の者です。 母親の実家が新潟県北魚沼郡の旧入広瀬村です。 母親の姉妹も同じく旧守門村にいます。 小さい頃の夏休みは毎年、ここ最近は2,3年に一回は遊びに行っていました。 当時は、両親や姉妹を心配して、気がおかしくなりそうな母親を毎日見ていました。私も、気が気でありませんでしたので、たまにメールで連絡を取り合ったりしたことをよく覚えています。 幸い、大きな怪我、事故、家の倒壊は免れたようですが、壁がぱらぱら落ちてきたり、物が散らかったりと痛々しかったと聞きました。でも、豪雪となる冬も無事に耐え、今に至っています。 最近は大袈裟ですが、毎日のように日本のどこかで地震がおき、つい先日も東京で4時間くらいの間に4回も地震があり、怖くなりました。対策をしなくては、とふと思うのですが、どこかで自分は大丈夫なんだと楽観的に考えてしまうことがあります。中越地震後に、都内にある防災センターでいろいろと体験してきたこともあるのでムダにならないよう、しっかり何かあったときのために備えられるようにしたいものです。
お礼
御回答ありがとうございます。 お母様、本当に気が気ではなかったでしょうね。 遠くにいらっしゃるだけに余計いても立ってもいられなかったことと思います。 もし東京都心で震度7の地震があったら・・・ どうなってしまうんでしょうか? そのようなことがないことを祈るばかりです。
- phantom1
- ベストアンサー率24% (184/748)
地震の当日職場(東京都杉並区)のTVで地震の報道を見ていたのですが、新潟のテレビ局から中継の最中に大きな余震が起こり、揺れているスタジオの映像が流れる中、数秒の差でこちらの足元にも揺れがきました。この感覚は非常に生々しかったです。マスコミが忘れてもこの体験は忘れられませんね。
お礼
御回答ありがとうございます。 全国版のニュースでは次々と大きな事件、事故があるためなかなかネタになりづらいですよね。 ただ、地元のマスコミ各社は毎日とは言いませんが、週のうち何回かは報道しています。 災害を風化させないため、被災地状況等を報道するのは地元のマスコミの義務である、とあるアナウンサーが言っていました。
私の場合、親戚などが新潟にいる訳ではないのですが 大学で仲良くなった友達が新潟出身の子が多かった為 スキー、夏合宿、その他観光でこの2年間で4回ほど新潟に足を運んでいます。 友達の実家に泊まらせてもらった事もあるので、市街地以外の町並みも見ました。当時は雪避けのため屋根のつくりが関東と違うんだな、と思った位でしたが、ニュースで新潟の町の様子を見た時、直接行った場所では無くても「新潟」という事で胸が締め付けられる思いがしました。 「母子の乗った車が土砂崩れに巻き込まれ…」というニュースもつらかったです。 友達の実家のあたりは震源地近くで結構被害がでた地域だったそうで、今でも友達から実家の復興についての話題が出てくるたび、過去の出来事として片付けてはいけないんだなと思います。住宅の補償問題は未だに片付かずもめてる方が多いそうですね。国では援助してくれないのでしょうか… 募金をしたり新潟復興の宝くじを買ったり、新潟産のお米を買ったりするくらいしか応援方法がない自分が情けないですが、新潟の復興を心から願っています。
お礼
御回答ありがとうございます。 ちょうど土砂から助けられた少年が運ばれた病院に、母が手術のため入院していました。 その後の少年の続報はニュース等では流れていませんが、本当に助かってよかったです。 ただお母さんがいない、というのがお子さんには最大の悲劇ですけど。 住宅問題、大変ですよね。地震当時は半壊だった家屋も、このたびの豪雪でほぼ全壊になってしまった家屋もあるそうです。 新潟復興のお気持ち、本当にありがとうございます。 これからも応援してやってください。
- yuyuyunn
- ベストアンサー率41% (20359/48650)
はじめまして GWにも新潟に行ってきました 夏休みも遊びに行く予定です 同じお金を落とすのであれば 新潟で、と思っています じつは、お隣の県なのですが 地震当日、旅行でバスの中でした まったく情報が入らない中、地元での地震で ある町が崩壊したとまで車内にデマが流れました たまたま、私の携帯がつながり 新潟の地震であるとわかったのですが 父に後遺症が出ました 一人で留守番ができなくなりました 地震の時(ゆれる直前ですが)の風のような「ガタッガタッ」という薄気味悪い音を聞いて いまだにおびえています 地震は過去のものではないですね
お礼
御回答ありがとうございます。 新潟によく遊び来て頂いているようでありがとうございます。 激震地の小千谷市では伝統の闘牛が再開されました。 機会がありましたら是非ご覧になってください。 また長岡祭りの大花火大会、今年も開催するようです。 現在では地震はありませんが、各地での地震のニュースを拝見するたびに悪夢がよみがえり、涙ぐみながら映像を見ていました。 本当にいつ来るかわからない地震、恐ろしいです。
関東在住で母の実家が新潟です。 そこは倒壊等の被害はなかった所ですが、知人の実家(長岡)は壁等が壊れる被害があったそうです。 決して他人事ではありませんでした。 村一つが消えてしまったような地区もあると聞いて、そこに住む人達の生活も心配ですし、長年培われた文化も失われてしまうのではないかと心配しています。 その日、私は東京都内にいましたが、度重なる揺れを体験しましたし携帯電話が不通になって苦労したのを覚えています。 記憶に残る事件と言えば、その後年末に起きたタイ沖の地震。 これは実はその頃現地に行っていたらしい知人がいて、未だその人が音信不通なのを気にしています。 最悪の事態でない事を祈っています。 その後はあの福知山の列車事故。 さすがに知人はいませんが、毎日電車に乗る時先頭車両を避けてしまいます。 また三宅島の全島避難していた人達が島に戻ったニュースも気になりました。 彼らはいつ元の生活を取り戻せるのだろうかと。 中越地震を受けて阪神大震災の被害者のその後を追ったドキュメントなどが放映された事も印象的です。 長年積み上げてきた文化や生活、命までも一瞬にして奪う災害は、誰を恨むこともできないだけに本当につらい事だと思います。 けれど明日は我が身かも知れない。 新潟の方達には心からお見舞い申し上げたいですが、何とか災害被害から立ち直るお手本になって頂き、もし自分たちがそのような目にあった時にはよきアドバイスをお願いしたいものです。
お礼
御回答ありがとうございます。 村一つ消えた・・・は山古志村ですね。現在は市町村合併により長岡市になっていますが。 山古志村は人口2200人位の小さな村ですが、全村民に避難命令が出されいまだ仮設住宅住まいです。 最近まで指定車輌(被害を調査に行くための車輌)以外は村民でも立ち入り禁止でしたが、 現在では村民の方は立ち入りできるようになりました。 しかしどこの家屋もとても住める状態でなく、とりあえず使える家財や仏壇を運び出す程度しかできない家屋がほとんどです。 また腹立たしいことに、夜間のうちに何者かが家屋に忍び込んだ足跡があったとニュースで言っていました。 とても許せる行為ではありません。 また、山古志村は錦鯉、国の重要無形文化財(だったと思います)の牛の角突き、すばらしい棚田の風景が有名でしたが、地震のため至る所で田が崩れ、 錦鯉も半分以上が死に(即物的ですが一匹数百万から噂では数千万という鯉もいたようです)、 闘牛も牛舎の下敷きになり死んでいた、ということでした。 本当になんと言っていいやら・・・本当につらい出来事でした。
- pikusii
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もう7ヶ月ですか。時の流れは速いですね。 あの地震で見た被災地の惨状は、阪神大震災以来の衝撃でした。数え切れないほどの家屋の倒壊や土砂崩れ、そして道路の陥没。改めて地震の恐ろしさを認識した人は多かったはずです。 あの時一番感動したのは、全国からのボランティアの方々でした。あいにく私は現地に行きませんでしたが、人との付き合いが悪化している今日にもかかわらず、あれだけたくさんの人が団結して救済をしている姿には本当に感動しました。 事実、地震で犠牲になり、また家を失くされた方たちも多数いらっしゃいます。1日でも早く元のような姿に戻って欲しいと思っています。 今年の3月に新潟に行く用事があり、その時に電車で被災地を通りました。外は雪で埋もれていましたが、それでも倒壊した家なども見て分かりました。 あの地震のことは日本人として絶対に忘れてはいけないと思います。教訓になったことがたくさんあるはずですから。
お礼
御回答ありがとうございます。 全国からのボランティアの方々、自衛隊の皆さん、たくさんの支援物資、ありがたくて涙が出た、と被災地に住んでいる友人(現在も仮設住宅にいます)が言っていました。 彼の自宅は半壊状態でしたが、何も出来ないうちに豪雪に見舞われ全壊状態になったそうです。 自然災害の恐ろしさ、本当に実感した出来事です。
お礼
早速の御回答ありがとうございます。 私は震源地から距離があるところにいたのですが、それでも立っていられないような揺れで、どうなってしまうのか、と物を考える余裕もなかったほどの揺れでした。 九州でも大きな地震がありましたが、自分自身の体験もあり、泣きたくなるような思いでニュースを見ていました。