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原罪と磔
こんにちは キリスト教についての疑問です。 大変不勉強でいまだに理解できないのですが、 アダムとイブが林檎を食べたという『原罪』(こういう理解で正しいですか?)と キリストが磔になったことは どう関係するのでしょうか? 林檎を食べたことの意味は何となくわかるような気がするのですが (自我の発生や主客の分離、エゴイズムなど) 磔になったことで、それをチャラにできたとは全く思えないのですが 一般的にどう理解されているのか、解説をお願いします。
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- kigurumi
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No.2です。 >聖書は英語版でもいろいろあるし日本語版もかなりニュアンスの違う訳があるようですね。 はい、ニュアンスが違うことで一大ブームになったのが、ノストラダムスの大予言。 あれ、誤植が原因だったって2000年になる数年前知りました。 昔発刊された本と、誤植された本を比べて、ここで間違われ、この間違いの本を元にこの人が、、、ってちゃんと説明されていたのに、なぜか滅亡を確信的に思う思想が勝ってしまって、わーわーお祭り騒ぎ。 人間ってこういうの好きなんですよね。 日本でもフランス語の古文?に詳しい人が、「その単語の意味は世紀末を予言している単語じゃなく、その当時はこういう意味の時使ってたんですよ」って詳細に解説したんですが、ユリゲラーとか幽霊とか超能力とか奇蹟好きな日本人は聞いちゃいない。 わーわーお祭り騒ぎしてかなりその手の本を出した人を幸せにしてしまいました。 2000年を前に集団自殺する人たちまで出る騒ぎになっちゃいました。 これってヨハネの黙示録が引き合いに出されて、さらに聖書がすごい書物だって証明されたかのように語られ、キリスト教勢力が拡大したんじゃないかと思います。 恐怖をコントロールされると人間はもろい。 >オカルト系情報ではマグダラのマリアがイエスの一番の弟子で、一番イエスの教えに忠実なものを残しているとかいう話もあるようですね・・・ ああ、ナグ・ハマディー、ダビンチコードですね。 >父親との問題が天国につながってゆくんですか・・・ はい、個人的な問題がこうなってしまったという。 でも、世に名を残した人たちの業績の元々の理由はごく個人的な問題に事を発していること多いんですよね。 >ずっと続いている『救われたい』という人類の願いが 虚実こもごもの宗教や救世主を生むというということは そのとおりでしょうね。 人間は誕生したときから、死と同居しているんですが、それを拒絶するから恐怖を操られ身動きが取れなくなってしまうと思うんです。 哲学的な回答は望んでいませんでした? あらら パウロはアンチキリスト教でしたけど、ある日突然熱心なキリスト教徒になったお話はご存知ですよね? キリストが起した奇蹟として有名だと思います。 その180度価値観を変えるほどの奇蹟とは一体なんなのか。 あなたも私も理屈も理論もいらずに全てがわかったと思える日が来るかもしれません。 そう 目からウロコの日。 説明を求められても答えることはできないが、「こんな当たり前な事を 質問してくるなんてどうかしてるぜ」って境地になる日が来るかもしれません。 http://blog.livedoor.jp/frrev/archives/2004-03.html 2004年3月27日のところ。 その時わたしは幸福でしょう。 でも それが本当に幸福なのか。 わたしはそれすら疑うことはないでしょう。
- bender
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No.8です。リンクがつながらないこと、大変失礼しました。皆様の回答をそれぞれ関心をもって読んでいるのですが、質問された方が直接資料を読まれたほうがよいかとも思われるので、回答中参照された聖書箇所をいくつか加え、再び記入しました。しかしながら各箇所には直接リンクできないようなので、以下の参考URLから、各章節を参照していただかなくてはならないようです。文字コードは「EUC-KR」だと思うのですが、私のコンピュータでは一部文字化けします。日本聖書協会のホームページから1節づつ検索できるようですが、前後の脈絡がわからなくなるので、付記のURLを利用しました。 また、ご存知かとも思いますが「氷点」などを書いた作家でキリスト教信者である三浦綾子氏が、「原罪」について触れた記述があったので、参考になるかと思いURLを付記します。ここでは、磔刑との関連性については述べられていないようです。 http://www.aurora-net.or.jp/doshin/book/tachiyomi/hyoutenwotabisuru/ (少し長いのですが、文章中「原罪」を検索されると関連する箇所が見つかると思います。) 創世記 3章:アダム、イブ、木の実に関する記述。(参考URLのページで「創世記」(画面左上)をクリックし、その後、画面上部に並ぶ章番号の中から「3」(3章)をクリック。) 創世記 4章:カインとアベル。 創世記 22章:アブラハムとイサク。(同様に「創世記」をクリック後、画面上部に22を表示させるためには、いったん12、そして17をクリックすればよいと思います。) ヨブ記 1章:サタンがヨブを試すことを神に求める箇所。他にも考慮する点が多いのですが、最終章では「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。」(42章12節)とあることなど、私は理解するのが難しい内容だと思っています。 マタイによる福音書 16章22節:イエスが弟子ペテロに「『下がれ、サタン。あなたはわたしの 邪魔をするものだ。 あなたは 神のことを 思わないで、 人のことを 思っている。』」と諌める箇所。前後にイエスの発言が続きます。 マタイによる福音書 21章12、13節:(ソロモンが建てた)神殿で怒るイエス。文中、イエスの言葉で『わたしの 家は 祈りの 家と 呼ばれる。』というのは、イザヤ書56章7節を引用していると日本聖書刊行会聖書の脚注にあり、その7節後半にある「すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」を踏まえて考えると、当時(神殿内部に入ることが許されていなかった)非ユダヤ人でも礼拝に来ることができた神殿境内を占拠していた商人に対してイエスが怒っている、と取ることも可能だと思います。 このほかにもイエスが旧約聖書を引用した箇所があったと思います。 イエスの死後ではあるのですが、「すべての人に尊敬されている律法学者ガマリエル」(使徒行伝5章34節)から「厳格な教育を受け」たパウロ(使徒行伝22章3節)が弟子として加わっていることは、当時の弟子たちの旧約聖書の理解程度を知る上で参考になるかと思いました。 ルカによる福音書 10章27節:「『あなたの 隣人を… 」。これは私は間違っていたのですが、この箇所では、イエスが直接言った言葉ではありませんでした。いずれにしても、これに先立つ「『心を 尽くし、思いを 尽くし、力を つくし、 知性を 尽くして、あなたの 神である 主を 愛せよ。』」が前提となっていると思われ、原罪を考える上で関連があるかと思います。前半部も考慮すると、これは全体で、モーセを通して与えられた十戒(出エジプト記20章1節~)を要約した内容と取れる、と私は思います。 以下はNo.3の方がすでに参照を明示してくださった箇所です。 ヨハネによる福音書 3章16節:「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。…」 ローマ人への手紙 5章19節:「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって…」
お礼
三浦さんのところには 『犯す罪ではなく、神を無視して自己中心の生活をすることである。』といういうようなことが書かれていますね。 他の部分については聖書を参考にして 読ませていただきます。ありがとうございました。
- mmky
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sirayukihimeさんの的を射た指摘に応じて参考程度の追伸まで、 現在あるキリスト教というのは、ユダヤ教のたたり神であるヤハウエ思想と、イエス様の愛の思想がごっちゃになっているのですね。ユダヤ経典には、何人かの神はいますが、たたり神のヤハウエが一番個性が強いのでそれが一番だと思い込んでいるのですね。いけにえがすきなのは、ヤハウエですね。砂漠の一民族神ですね。イエス様自信がダビデの神殿で大暴れしてやめろといっているのですから、一番の神がヤハウエであるわけないですね。その辺が現在のキリスト教のへんなとこなんですね。また神が全知全能であれば、愛の神のみが子供であるわけもないでしょうね。芸術の子供も科学の子供も奇跡の子供も秩序の子供もいろんなのがいないと変ですね。これは、信仰というより普通に頭で考えればわかることですね。信仰は大切なものですが、本道を外れると悪になりかねませんね。イエス様は愛の神であることは間違いないことですね。イエス様の愛を信じて、信仰をたて実践することはよいことですが、ヤハウエ教と区別できないようではまずいでしょうね。本題の原罪ですが、神の子供を十字架に掛けたのですから、それはえらい罪でしょうね。何千年も消えることはないでしょうね。その意味での原罪はあるといえますが、アダムとイブまでさかのぼることはありませんね。それを人類の罪をかぶって殺されたとすりかえたら、普通は詐欺師か大悪党ですよね。詐欺師の論理を使えば詐欺師にしかなりませんね。だから質問者さんの「磔になったことで、それをチャラにできたとは全く思えないのです」ということは、その通りですね。 キリストというのは救世主という意味ですから、救世主はイエス様以前もいたんですね。キリスト教よりイエスさまや釈尊仏陀を直接信仰した方がよいのではないのでしょうかね。ちなみに、原罪など詐欺師の教えであるという私は、仏陀の弟子でイエス様の弟子でもありますが、現代のキリスト教徒ではないようですね。参考程度に
お礼
>ユダヤ教のたたり神であるヤハウエ思想と、イエス様の愛の思想がごっちゃになっている たしかに、なんかそんな気はしますね。 >原罪など詐欺師の教えである まあその後大いに政治利用されたことは確かですもんね。 ありがとうございます。
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
初めまして。お早うございます。 クリスチャンではないので傍観者に過ぎませんが子どもの頃からキリスト教に興味津々同じくらい疑問モクモクという気持で覗かせていただきました。 私はイエスという男、いやイエス様と言わないと信者のかたに叱られますね、イエス様は嫌いじゃないです。でも、ぶっちゃけ「神様」は好きじゃないです。好き嫌い言ったって、しょうがないのかも知れませんが。 キリスト教については、かねがね疑問に思っていたんですが、何故、人を試すのでしょうか?「人を試すなかれ」ってキリスト教でこそ言われそうな気がするんですが。このカテのどこかで読んだんですが「神は人に自由意志をお与えになった」そうですが、何のために?造られたときそのままで全き良きものであったのなら、そのままおいときゃいい。「神は人を愛しておられる。しっとするほどに」強い愛情としっとは背中合わせ、だから人を試さずにいられない?ホント愚かと言うか人間臭い神さんですね。お釈迦様が「神」を「仏」の下に位置させたのも、むべなるかな。 イエスが磔刑になったのは人間どもの罪を着て身代りにということだそうですが神の直接の子罪なき子であるはずのイエスが人間どもの罪を負うということの意味が分かりません。どうして背負えるの?背負わせられるの?私の目から見れば、むしろ神自身が自分の子に、みずからの罪を負わせて償わせているように見えます。「私が、あなたがたを愛しているということを信じてください」と言いながら。 聖書というものは時代の移り変わりのなかで、むちゃくちゃのくちゃに作り変えられていると、やはりこのカテのどこかで読んだんですが、それなら読んだってしょうがなかろうにと思います。仏教だってキリスト教より、ずっと古いですが、もう少しリクツの通ったこと言ってますよ。かくも破天荒なストーリーを真に受けられる、受けようと努力できるのだからイヨーロップ人はと言うかクリスチャンという人たちって相当のモンですね。ある意味、感嘆します。 しかしながら、なるべく幼いうちに慣れさせておくほうがいいでしょうね。大きくなってからでは、やはり一般常識とかが邪魔して抵抗感が生じてしまいやすいだろうと思います。私も小学生の頃、図書館にあった聖書のシリーズ全巻読破しましたが、その当時は特に「ついて行けん」とか思わなかったですから。「へ~ふ~んオモチロイわ。それから?それから?」って、おとぎ話感覚でしたから。対して仏教は大人になって、いろいろ経験してから自分の意志で、一つの思想として選び取りました。 ま、でもkigurumiさんが仰るように「いいんです」よね。荒唐無稽であるほど「狭き門」ですよね。イエス様キライじゃないです。信者さんたちガンバッテください。でも私の罪を身代りに背負ってくれなくて結構ですよ。ノー・サンキュー! 御質問者様、これは感想です。大変失礼しました。御許しください。
お礼
>「へ~ふ~んオモチロイわ。それから?それから?」って、おとぎ話感覚でしたから いやいやそのとおりですよね。奇蹟だらけですものね。 本当にそういうことがあったらいいなあと思うんですが 現実的には・・・本当に信じたら、聖書に書いてあるような事が起きたりして(笑) こういう気持ちをもっているが沢山いるから、変な宗教やカルトに引っかかる危険があるわけですよね。 ありがとうございます。
- kigurumi
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たびたびすいません。 No.2アゲインです。苦笑い >林檎を食べたことの意味は何となくわかるような気がするのですが (自我の発生や主客の分離、エゴイズムなど) と質問者は哲学的な回答を望んでいますが、宗教に関しては、哲学的な質問をしても哲学的な回答が返って来ないことの方が多いと思います。 宗教は現実とズレがあるところに魅力があると養老猛さんは言っていたような。 ズレ。 例えば「人間は昔ヘビと会話ができたんです」って言われたら何も言えません。 例えば「全能なら何でもできるんだから、神は人間をその木が見えないように作ってもよかったんじゃないの?他にも人間にはできないことがいっぱいあるんだし、できないものの一つに見えないようにもできたんじゃないの? そもそも全能なら人間がそうなるって知っていたんじゃあないの。わかっていながらなんでそんなことするの」って言っても、人間に自由意志を与えたんですって「はぁ・・?」ってなって黙るしかないです。 聖書にはサタンと神が話し合って人間を試す場面があります。 かなり人間にむごい事をしてサタンとゲームを楽しむ場面です。 全くの義の人がそんなことしていいのか?って我々は不可思議に思いますが、「神だから何やってもいいし、人間は神を試すのは禁止だけど神は人間を持てあそぼうと勝手にやっていいんですって。だって神様だから」って言われて、はぁ・・・って黙るしかない。 ちなみにサタンとは悪口を言う人という意味で、誰だったか忘れましたが、イエスの決意にちょっとそれは・・っていうと、「サタンよ退け」ってイエスは怒りました。 怒らなくてもどうしてそういう風に思ったのか説明すればいいのに・・って思いました。 しかしイエスが神ならいいんです。この世界では。 ちなみに私がここで書いていることを読んで、私にサタンが入ったと思っている人もいたりして・・苦笑 いいんです、この宗教では自分と反対の意見を言う人をサタンと呼んで見下していいらしいので。 たまにキリスト教について「どうして」って聞いて納得しなくて言い返すと、サタン呼ばわりされています 笑 まあ、だから宗教と哲学は違うので、哲学の場で宗教独特のズレについて理解しようと解答を求めても無駄な気がします。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~jesus/message/index.htm ここに他の人たちが回答した内容をわかりやすく書いてあります。 でも、哲学ではなく宗教的な考えで、現実的ではありません。 いいんです。宗教は現実とずれているから魅力があるのですから。 哲学では救えない心を満たしてくれるもので、人によってはそれが無ければとても辛いし、すがる気持ちもわからないではないです。 人間は弱い だから宗教を編み出したって思います。 人間はもろいが集団になれば強くなる。 しかし群れることができない人にとっては宗教は心のベストフレンドになりうると思います。
お礼
宗教のカテがないので哲学のところに質問させていただいたのですが 別に哲学的かどうかより『とにかく納得できれば』(笑) いいのです。 安易ですがやっぱり『奇蹟』のひとつでも見せてもらえれば(笑) っていうのが一番ですが、 『善いこと』をしたいという気持ちを持っている人も少ないので イエス・キリストのような考え方は わりと納得できるものではありますよね。 ありがとうございました。
- tanita530
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日本には八百万(やおよろず)の神といってたくさんの神々があるといわれていますが、日本人が神ということばを使ったときには、あまりにも神という概念がばらばらです。 もし、神が本当に存在するならそれは人間が造った神ではなく、もともと存在し(だれかが造ったものならそれは神ではありません。)天地万物を創造し、無から有を作り出せるからこそ神なのです。神は唯一(ただひとり)であり何でも出来る方ですからたくさん存在する必要はなく、すべてのことを知っておられ、どこにでも存在され、正しいお方で、完全な聖さをもっておられ、義なるお方で永遠から永遠に存在される愛なるお方です。 このことをまず知っておいてください。 神様は最初にアダムという男性を創造し、次にエバという女性を造りました。その時は人間に罪は全くありませんでした。 神様は、最初アダムとエバをエデンの園という庭に住まわせていました。どんなことをしてもよかったのですが、たった一つだけ「この園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはならない」という命令をだしました。それは、人間をロボットに造らなかったという証拠でもありました。つまり、人間に自由意志を与え、人間との間に愛を存在させたかったのです。 しかし、悪魔に化けたへびに誘惑されたアダムとエバはその命令を破り、その木の実を取って食べてしまいました。そのために人間は罪人となりエデンの園を追放され、人間は必ず死ななければならなくなってしまいました。 これがキリスト教でいう人間が原罪をもって生まれてくる理由です。この原罪というのは、人を殺すとかお金を盗むなどの警察に捕まってしまうような罪だけをいうのではなく、心の中で「あいつなんていなければいい」とか、「あいつなんて死んでしまえばいい」などど思うこともその罪に含まれます。うそをつくことも罪です。つまり、人間として生まれたならばすべての人間が罪人であると宣告されているのです。 しかし神様は、きよい正しいお方であり義なるお方ですから、その人間の罪を罪として罰しなければならないのです。 その結果、すべての人間は地獄に投げ入れられてしまうはずでした。 しかし、人間を愛している神はその地獄に投げ入れてしまう人間を救う道を開いたのです。 その方法は人間に「いい人間になりなさい」「修行をして罪のない人間になりなさい」 「いいことをたくさんしなさい」という命令を出すことではありませんでした。そんな命令を出したところで人間は修行やいい行いをたくさんすることによっては罪のない人間になることは不可能だということを知っていたからです。 そこで、神は自分のひとり子であるイエスキリストをこの地上に誕生させ、全人類のすべての人間の罪の刑罰を負わせて十字架にかけて死なせ3日後に復活させることにより人間のすべての罪を完全に赦し天国へ連れて行く道を開いたのです。 イエスキリストは何の罪も犯さず一回もウソを言ったこともありませんでした。 十字架にかかって殺されようとしたときにイエスキリストは自分が無実であることを叫びませんでした。 ほふり場に引かれていく子羊のように何も言わず、自分がかかる十字架をかついで処刑されるべき場所へと歩いていき、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈りました。 私たち人間は無実で十字架にかけられているときに、自分を殺そうとしている人に対してこのように言うことはできません。 しかしイエスキリストはそのように言って十字架の上で息を引き取りました。しかし3日目に復活しました。 それは、イエスキリストが神のひとり子であったという証拠です。3日後に復活したのも彼が神のひとり子であったからできたことなのです。 イエスキリストは私たちを命をかけて愛し私たち人間の罪の刑罰を身に受けて十字架にかかって死に天国への道を開いてくださったのです。 そのことを自分のこととして信じる者はすべての罪を赦され天国へ行けます。しかし信じないものはその罪が裁かれ地獄へ行かなければなりません。クリスチャンはイエスキリストの道徳的な教えを信じているのではなく、十字架と復活を信じているのです。 イエスキリストの十字架と復活がなければキリスト教は存在しませんでした。 このことはすべて聖書に書かれています。 聖書は毎年毎年世界中の多くの国の人々に読まれ何年たっても世界のベストセラーです。しかしクリスチャンと同様、聖書ほど迫害を受けてきた書物はありません。ローマ時代の初期には王がクリスチャンを迫害して殺してしまうと同時に聖書も全部焼き払えという命令が出され聖書は全部焼かれてしまいました。 しかしどんなに人間がクリスチャンを迫害し殺しても聖書を焼き払ってもクリスチャンはこの世界からいなくなることはなかったし、聖書もこの世界からなくなることは決してなかったどころか世界中のほとんどの言語に翻訳され読まれ本当の救いと喜びと希望を与え続けているのです。 どうか、聖書を読んでみてください。
No.11です。 ほかの方の回答に関するお礼を読んでいて 気になりましたので、 ふたたび寄稿します。 キリストがしたあがないは、 罪の種類を選んでなされたわけではありません。 洗礼と同時に、その人が犯したすべての罪は許されます。 それ以降に犯した罪については、 カトリックでは「ゆるしの秘跡」と呼ばれる機会が信者の希望により設けられ、 そのときに教会の神父に告白した罪については、 キリストに話したのと同じとみなされ、すべて許されます。 それは、神父さまがゆるすのでなく、キリストがゆるすのと同じなのです。 ただし、ほんの少しですが、罪をゆるされた感謝のしるしに、神父さまから、お祈りをするように命じられることがあります。 なお、神父さまは、告白を受けた罪については、 絶対に誰にも話してはならないし、 仮に、告白した本人が、前に告白した罪のことについてたずねても、 「神様がゆるしてくれたのだから、 あの罪はなかったのと同じ」と言う考えから、 「忘れました」」とか、とにかく、 本人がきいても、話してくれないです。 チャラになった、とは、よい表現だと思います。 ただ、洗礼を受けた人の罪・告白した人の罪ということをのぞけば、 まさに「チャラになる」のです。 それと、 「ついていけない、キリスト教は」と思われるかもしれませんが、 おとなになってから自分で洗礼を受ける人の全部が、 聖書を全部通読し、なにもかもよくわかって受けるわけではありません。 新約聖書を全部読む人はいるかもしれませんが、 旧約聖書を全部読む人はあんまりいないと思います。 ただ、 聖書を読むなり、 教会をたずねていくなり、 自分の尊敬できる神父に出会うなりして、 なんらかの形で「キリストに会った」ような気がする そんな1部分がはじまりになって、 おとなになってから洗礼を受ける人が多いです。 はじまりは小さくてもいいのです。 この回答については、 解説とは違いますし、 質問者さまの心の動きもあると思いますので、 「自信なし」にさせてほしいところですが、 根拠はあることなので「自信あり」と、やっぱりします。
お礼
わかりました。ありがとうございます。
クリスチャン(カトリック)です。 その意味で、「経験者」としての回答をさせていただきます。 前提として申し上げておくと、 「カトリック」というのは、 代々のローマ法王(今はヨハネ・パウロ2世)を頂点にいただく、キリスト教会全体をさしますので、 カトリックとして回答させていただくことは、 キリスト教のあらゆることに関する、正統な回答とみなしてくださって差し支えないと思います。 ただし、100%裏づけのある、専門家としての回答を いただきたいという場合は、 最寄のカトリック教会か、ギリシア正教教会か、 ロシア正教教会かをお訪ねになり、 それぞれの聖職者に質問されるのが、 専門家回答を得られる方法ではないかと思います。 が、信者として回答することで、 ほぼ正確な回答になると思いますので、 回答させていただきます。 1.アダムとイブが林檎を食べたことが「原罪」であると いう理解で正しいかというご質問について 聖書の中の、旧約聖書の、「創世記(そうせいき」 をお読みになると、その箇所が出てきます。 アダムとイブは、 神につくられた最初の人間として、出てきます。 神は、最初の人間をつくるとき、 人間に、もちろん、考える力をも与えました。 そして神が人間に与えた楽園の中で、 ふたりの人間は暮らしていたわけです。 神は同時に、 「園にある知恵の木の実は食べてはならない、 食べたら死ぬから」と、 あらかじめやさしく命じておきます。 (やさしく、という言葉は聖書には載っていないと いう反対意見があるかもしれませんが、 日本でも、 父親が子になにかをさとすときは、 言葉はきびしくても、父としての愛情から そうするのだという認識はありますでしょう。 そこを加味して、 日本人に対する聖書の説明には、 「やさしくさとしておいた」という翻訳のほうが 適切で、聖書本来の意図がつたわりやすいと おもいます) そこに、お読みになったとおもいますが、 人間をそそのかす蛇が登場します。 蛇は、「食べたら死ぬなんてうそだ、 それを食べればもっと賢くなる」と 人間(イブ)に吹き込みます。 人間がそれを食べれば、 不幸になるのがへびにはわかっていて、 へびはそそのかしたわけです。 人間は、イブは、それをきいて、自分の判断でもって、 へびのいうことを聞き入れ、 自分も園にある木の実を食べ、 また、夫であるアダムにも、 それをすすめます。 アダムも、自分の意思でもって、食べることを選択します。 そのとたん、 人間としてのふたりは、 神につくられた自分たちの姿を客観的にみるようにな り、 自分たちの姿(神からあたえられた、ありのままの自分のことです。質問者さまが、まだ神というのがもし受け入れがたければ、ありのままの自分の姿、だとおもってくださっていいです)を恥ずかしく思うようになります。 それで、自分たちの体をおおい、 なおかつ、神の目のとどかないところに隠れようとします(現代で言えば、自分にはある方面の能力があり、またない能力もあるのに、それを知ると、恥ずかしく思い、自分の天分を伸ばすことを考えればよいのに、ないことを恥じることにエネルギーを使ったりすること、と説明すればよいでしょうか)。 神は、自分の子どもの姿が見えないので、 心配して、さがしもとめます、 そして見つけて、ききますと、 「裸であること(=つまり、神につくられた自分の姿、ありようのすべて)が恥ずかしくなったので、隠れている」と。 「裸であることを、誰がお前に教えたか?」と神はきく。 つまり、神は人間をつくったその、ありのままの姿が、 恥じるものであるなどということを、 だれが間違ってお前にわかるようにしたのか、と聞きます。 アダムは「あなたの(つまり、神の)下さったあの女(イブのこと)が、わたしにすすめたので、食べた。そのたん、自分の姿が恥じるものであることがわかるようになった。それで隠れた。」と答えます。 原罪を理解する前提として、 神が人間をつくった、 人間の先祖(アダムとイブ)だけをつくったのでなく、 あらゆる人間は神によってつくられたものだ、という 「神が父親である」という考えの受容がまず必要です。 神は、人間をそれぞれおつくりになる。 ひとりとして同じ人間はいない。 神がそのように、ひとりの人間をつくったのだから、 わたしたちはそのこと(個性)に恥をもつ必要はない。 神が、創世の最後に 「それらはことごとくよかった」というのは、 人間も魚も鳥も木も、それぞれの姿で「よい」 そのままの姿で「すばらしい」という意味です。 「よかった」というのは「それだけが完全」という意味でないです。それぞれによいのです。 人間は食べ物、あたたかい空間がなければ 生きていけない。ひとりではいられない。 神はそれだから、人間に「楽園」を備え与えた。 奪われてしまった今だから「楽園」という言い方になりますが、 神は、人間にとってそれが必要欠くべきものであるから 愛している子どもに対して父親のだれもがするように 当然のように「園」を与えた。 神から、知性を与えられて生まれてきた人間が、 その知性でもって、そそのかすもののいうことをきき、 父親のいうことをわすれて、 父親の愛を裏切って、 他人であるへびのいうことをきき、 「父親につくられた、自分の姿、ありのままの自分」を恥じるようになる。 原罪というのは、 「アダムとイブが林檎をたべたこと」 には違いないのですが、 厳密に言えば、 その本質をいえば(現代の日本人にわかりやすく説明すると)、 「神様が、『恥じることはない、 おまえはそのままで十分なのだ、 それぞれに人間はみなうつくしいのだ、 恥ずかしく思うことはない、 おかれたそのままの立場で成長し生きるように』と願って人間をひとりひとりつくったのに、 その気持ちを裏切って、 人間が成長過程で、間違った情報を聞いて、 しかし最後には自分の意思でもって、 「知恵の木の実を食べる=まちがったこと(ありのままの自分がはずかしい)を知る」ようになったことです。 それに基づいて、 行動し、 結果、幸せになるどころか、 あれこれと苦労し、 不幸になってしまった。 2. 「原罪とキリストが磔になったことは、どう関係するか?」というお尋ねについて 神は、アダムとイブの裏切りに、 悲しくなり、 怒りのあまり、 二人を追い出す。 あのう、キリスト教の神は、 言い方がむずかしいのですが、 ある意味、人間くさいのです。 わたしはそれだから好きなのですが。 それから長い時代、人間はアダムとイブを先祖にして ふえます。 神の愛から離れた状態を最初にして、どんどん増える。 それで多くの人は、結果的に、不幸になっていくだけ。 この時点で、 神と人間は、それぞれに1対1の関係です。 そのなかで、 まったく神のいうことなど聞かない人もいれば、 聞く、よい人もいる。 問題は、聞かないゆえに、罪におち、 しかも、罪の結果を自分で負うことになってしまう。 それはとてもつらいことで、しかも永遠に続く。 1対1の関係だから、逃げ場もない。 今もいます、 どこでどう曲がってしまったか、 自分で犯した悪の結果に苦しみ 耐えかねている人。 神はそれを見ていられなかった。 それで、神と、人間との間に、キリストをおいた。 キリストは、神の、たったひとりの、直系のこどもです。 だから、人間の性行為によってできたのではなく、 聖霊の働きによって、 マリアさまは、処女のまま、キリスト・イエスを身ごもります。 婚約者のヨセフは、悩みます。 てっきり、マリアさまが、ほかの男性と通じて、妊娠したのだと思ったのです。 ヨセフのもとにも、神の使いがあらわれて説明します。 ヨセフはそれゆえ、マリアさまをうけいれ、結婚します。 ですから、キリストは、 みなさんがた父親が、大切に思うのと同じ、 神にとっては、自分の愛する子どもであったのです。 みなさん、もし自分の子どもが、他人に殺されたらどうするか? 悲しいでしょう。 神も同じであった。 自分の子どもキリストをとても愛していましたが、 同時に、ご自分が神として創った人間に、 とても愛情をお持ちだった。 人間が、それぞれの罪のゆえに、 不幸になっていくのを、黙ってみてはいられなかった。 旧約聖書には、あまり神の悲しみは書かれていませんが、 人間のする、ありとあらゆる悪いこと(罪)が書かれています。 アダムとイブの犯した原罪の結果、 罪は形をかえ品をかえ、量もふえ質もわるくなって、 手がつけられない。 その罪の結果、ほかでもない、犯した人間自身が不幸になる。 父である神としては、悲しい思いばかりしていたでしょう。 人間の不幸を見過ごせなかった。 人間は、この時点では、自分の罪の結果を、自分で尻拭いしないといけない。 自分で代償を支払わないといけない。 神は、それを、自分の直系の子ども、 血を分けた子ども(キリスト)に、 人間全部にかわって支払わせることにした。 (支払う、と書きましたが、宗教用語では「あがなう」といいます。簡単に言えば、他人の負債を、自分がかわって負担することです) 自分の創った人間達を愛するがゆえに。 でも、神は、自分の直系の子どもに、 人間の罪を背負わせて、平気ではなかった。 キリストと神とは、ひとつです。 キリストは、父(神)のいうことを受け入れ、 神のお考えを、たとえ話をつかい、説いて歩く。 (新約聖書の「放蕩息子のたとえ話」は アダムとイブの原罪のことの始まりと顛末と、その後の救いの話を、キリストは当時の人にもわかるように話しているものだと思いお読みください) 民衆をいやし、 民衆は、罪だらけの政治家たちより、 キリストを支持するようになる。 キリストは人気者になる。 政治家達は、キリストを、権力を狙うものとみなし、 死刑にしたいが、人気者のキリストを殺して、自分の評判をおとしたくない。 自分を「神の子」だというキリストを、 当時、自分たちを、神の擁護者だと信じていた祭司たちは、 神にたいする冒涜だとして、キリストを死刑にすべきだと 主張する。 時流がそうなるや、民衆は、 キリストの死刑をもとめる。 キリストの死刑が決まる。 キリストは、神の子であるのに、 史上最悪の犯罪者扱いされ、 死刑になります。 キリストは、逃げることもできた。 おまえは神の子か、と裁判で問われて、「ちがう」といえば、 死刑にはならなかったでしょう。 しかし、父親である神が、 「わたしの創った人間達の罪のつぐないは、 とても人間に背負えるものではない。 罪はひろがるばかりだ。 わたし(神)の子であるおまえなら、そのあがないができる。おまえを受け入れる者の罪は許されることになる。頼めないか?」というので 苦しみながら、 それをなしとげる。 神は、キリストが死んだその瞬間、大きく悲しまれた。 聖書には「神殿の幕が裂けた」とあります。 そのキリストを信じ、洗礼を受け、 生けるキリスト(←一度死んだのに、生きる、ということにはまた復活の神秘に対する説明が要りますが、それは質問されてないので、割愛いたします)をパンの形でいただくものは救われると、私たちクリスチャンは信じています。 未信者のかたに、 あまり間口をせばめることは言いたくないのですが、 磔になったことでチャラになった、というよりは、 「自分が犯した罪でもない、 人間の罪を背負って十字架にかかって死んで復活したキリストを信じるものは、救われる」というのが 教会が保証する、救いです。 一般的にどう理解されているのか、 という答えにはなっていないかもしれません。 一般的な理解、という意味では、 他のかたの回答が適切かもしれませんが、 あまりに、キリスト教会で保証されている「救い」と 聖書に対する解説が、 正しいものとは言いがたい回答もありましたので、 回答することにしました。 (正誤について論争することはしたくないですが、 しかし、正しい回答をする義務は信者としてあると思いましたので) キリスト信者がどのように理解しているか、解説を含めて 回答させていただきました。 ながくなりました。 ほんとうにお読みいただきありがとうございました。 神さまがあなたを祝福してくださいますように。 (日本語でいうとかたいですが、 英語の GOD BLESS YOU!です)
お礼
長文の回答ありがとうございます。 昨日マルコを読んでみて、『自分が犯した罪でもない、 人間の罪を背負って十字架にかかって死んで復活したキリスト』 という意味はよくわかる気がします。 キリストでなくても、どの時代に生まれても 前の世代の人間のやったことを、後の世代は背負うことになり、 なにが元々の罪か(原罪?)を追求しても意味がないのかもしれません。
- kigurumi
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No.2です。 そもその聖書に書かれていることに沿って考えようとすることに無理があるように思います。 英語と日本語の聖書を持っていますが、日本語の聖書を読むと何を言っているのかわからないが、英語の方を読むと言っていることがわかる。 (言っていることはわかるが、それが納得できるものではなく、文章として理解できるというだけですが。日本語の聖書を編集した人は日本語がそれほどうまいとは言えないように思います。) えっとなんだっけ? そうそう。 聖書が歴史の書であるのか。 ある疑問があります。 新約聖書の冒頭にイエスの家系図があります。 その家系を見るととんでもない人物が何人もいます。 それよりもっと驚いたのは、イエスはダビデ直系の子孫の理由として、『父親のヨセフがその家系だから』としていますが、ちょっと待て! ヨセフはイエスの実の父親じゃないぞ。 マタイ(でしたっけ?)は故意に書いてイエスを父なし子として批判したかったのに、聖書に取り入れた人は、あまり頭がよくなくて、マタイはイエスは正当な血筋だと言っていると勘違いして聖書に採用したんじゃないでしょうか。 他にもあります。 同じ現場に立ち会った信徒の言っていることがそれぞれ違います。 イエスと共に過ごし、同じ現場を見たのに、どうして違う世界として表現しているのか。 しかもそれぞれを聖書編集者は両方とも採用して聖書に載せている。 どっちが正しいのか。それとも両方とも違うのか。 聖書は難しいと言われる理由の一つに上記のような???があるからじゃないでしょうか。 どうして同じ現場にいる人たちの言う世界が違うのか。 簡単なこと。人によって捕らえ方が違うから。 伝え方が違うから。その伝えられた人がさらに解釈を違えて別の人に伝えていくから。 そのそも各聖書の編集者は恐らくこれを書いたのは内容からマタイ自身が書いたの「だろう」、こっちは内容からするとヨハネ「だろう」としています。 ヨハネの弟子の弟子の弟子が「こう口伝えに教わった」として何かの記録に残し、それがヨハネ自身が言ったかのように後世に残って、それを編集者が採用して聖書を作ったのではないかと思います。 だから、キリスト教の『イエスの死は福音』だとなっていることに無理があるなあと思えるのです。 それはイエスの思想ではなく、彼の死後のキリスト教の思想でしかない。 イエスの天国とはそういうことじゃなくて、自分にひどいことをした人を恨まず死ぬことこそ幸いだって言っているんだと思います。 イエスにひどい仕打ちをした人は誰か? イエスの父親です。 彼は求めさすらい幻の父親を求めました。 あの当時、父親がいないということは、存在の否定をも意味するほど辛いものだったと思います。 イエスは「ヨセフの子」と呼ばれることはなく「マリアの子」と世間では呼ばれていました。 存在の否定であり、人権など無いような扱いです。 その貧しい心の(満足していないって意味)の彼が言ったのは「おやじ どうして自分を捨てたんだ」そして「おやじの決めたことに文句はいいません」 ここで彼は父親を獲得できやすらかに消滅していった。 これが天国です。 これがどうしてイエスの磔刑は人類にとってハッピーなことだという思想になるのでしょうか。 原罪という思想をイエスは持っていましたか? それはイエスの死後、何十年か何百年か後にキリスト教を作った人の都合がからんでできてしまった一個人の思想が、共通了解として刷り込まれてしまったからではないのでしょうか。 「偉い人が間違うわけない」 この思い込みが間違いだと思うのです。
お礼
そうですね。聖書は英語版でもいろいろあるし 日本語版もかなりニュアンスの違う訳があるようですね。 事実関係の信憑性については、もう何とも言えないという他ないですね。 オカルト系情報ではマグダラのマリアがイエスの一番の弟子で、一番イエスの教えに忠実なものを残しているとかいう話もあるようですね・・・ 父親との問題が天国につながってゆくんですか・・・ ずっと続いている『救われたい』という人類の願いが 虚実こもごもの宗教や救世主を生むというということは そのとおりでしょうね。 ありがとうございます。
- wa-chan
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私はクリスチャンです。 他の方の回答を見ていると、う~ん、一般人から見たキリスト教はそんなイメージなのかな・・・という印象です。 まずアダムとエバが食べた木の実は、善悪の知識の木の実です。 神との契約を破った、神に逆らったという部分に最初の罪があります。アダムとエバが罪を犯したので、そこから生まれてきた子にも罪(原罪)があるわけです。 もちろん罪を持ったまま天には行けません。だから生まれてくる人は何もしないままでは地獄行きです(本来は地獄という言い方はしませんが) そこに現れたのがイエス・キリストです。イエスは人であり神であり、また完全に義人・罪のない方です。罪人が他の罪人を救うことはできません。しかしイエスは罪がないので、我々の罪(原罪を含めその他の罪全て)を背負って十字架によって死んでくれたのです。 しかしそれだけで私達の罪がなくなるのではありません。 そこで重要なのが『信じる』ということです。イエスが自分のために死んでくれて、それによって私は罪から解放された・救われた、という信じる気持ちがなければいけません。イエスを信じていないのに『イエスの十字架で俺の罪は無くなった』というのはおかしいですよね? それと聖書には『私達は、イエスによって義人と認められる』というような部分があります。私達は罪がなくなるのではなく、義人と『認められる』のです。 ちなみに神に対する一番の罪は不従順・従わない事です(原罪は不従順の罪でエゴとは少し違うと思います) 長々書いた割にまとまらなくてすみません。
お礼
>原罪は不従順の罪 なるほど。 ありがとうございまうす。 昨日新約のマルコを読みました。 聖書読んだ記憶がないのですが、ほとんど話しを知っていました。 (子供の時読んだんですかねえ・・・) 奇蹟だらけで、思わず引き込まれました。 私も信じたくりましたが・・・(笑)
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お礼
それもそうですね。 どうもありがとうございました。 ☆☆皆様、沢山の回答ありがとうございました☆☆ ※今回は回答に優劣をつけるのは難しいですので、 ポイントは入れませんがご理解ください。