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日米和親条約

日米和親条約は不平等条約ですか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • retorofan
  • ベストアンサー率34% (435/1276)
回答No.1

日本は鎖国していました。 けれど、ペリー提督の黒船が現れて、 「貿易をしないと大砲を撃つぞ」 と脅されました。 日本は戦争を避けるために、やむなく日米和親条約を結び、 港を開けることにしました。 この条約により、日本はアメリカに対して貿易を開放し、 アメリカの船舶に対する補給や修理のための港を提供することが求められ、応じる約束をしました。 また、日本はアメリカに対して友好的な関係を維持することも 約束しました。 このように、外圧に屈して結ばれた条約だったんです。 だから、日米和親条約は不平等条約の一つとされています。

puwapuwapuwa
質問者

お礼

ありがとうございます!!

その他の回答 (3)

  • pri_tama
  • ベストアンサー率47% (678/1421)
回答No.4

不平等条約なのは、3年後にタウンゼント・ハリスによって結ばれた「日米修好通商条約」ですよ。   ⇒「治外法権を認める」「関税自主権がない」という条項が有ることから。 まあ、日米和親条約の「アメリカに対する最恵国待遇」を不平等条約とする考え方も有りますが…。

回答No.3

そうだよ! (日本側から見れば、ね)

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2300/5115)
回答No.2

>日米和親条約は不平等条約ですか? 不平等条約と考えたのは、明治新政府です。 まぁ、旧幕府の政治は全て否定しないと新政権の維持は出来ませんからね。 常識的に考えると・・・。 当時の幕府は、オランダ商館を通じて諸外国(オランダ・ドイツ・イギリスなど西欧諸国)と交易・外交を行っていました。 ※カトリック信仰国は、対象外。 ペリー来航は、1年も前からオランダ国王親書で幕閣に伝わっています。 旧教科書では、蒸気船が来航してきただけで幕閣は混乱した!と記載していますよね。 が、実際は意外と幕閣は冷静だったのです。 「武力で対応するなら、当方も武力で対応する」と、幕閣の代表は述べていますからね。 ペリーも、上げた拳を下げる事が出来ないので「交渉決裂の場合は、琉球支配(植民地化)」を考えました。 この時点でも、日本は植民地にならず独立を保ったのです。 1835年。幕府は既に「外国奉行支配書物御聞出役をフランスに2回派遣」しています。 ペリー来航の、約20年も前です。 「鎖国」という言葉が、明治新政府によって誕生した事が分かりますね。 で、本題の不平等条約なのか? 実は、不平等条約ではありません。 当時の幕府体制・国内の産業状態では、国際的な平等な取引を行う事は不可能でした。 為替レート・税金・金銀の国際価値など、不慣れな幕府が事務を行う事は不可能に近いのです。 そこで、植民地以上の条約になった次第。 現在、日銀植田総裁の「円安・低金利政策」が国際的に不平等だ!と経済界では囁かれていますよね。 ※安い日本製品が、多く輸出されています。 投資家からは、もっと円安・ゼロ金利を頑張れ!と植田後援会が出来ています。^^; 誰も「円安は不平等だ」とは、言いませんよね。 当時の条約も、同じ事です。

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