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新幹線関連
こんばんは。 10月1日に東海道新幹線が開業60周年になりました。私自身、東海道新幹線に乗車経験はありませんが、確か 0系だったような気がします。時には、映画化になったこともありました。東海道新幹線の思い出について、可能でしたら教えて下さい。 よろしくお願いします。
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初めて乗った新幹線は0系でした。子供の頃1970年大阪万博に親と一緒に乗りました。残念ながら特に新幹線についての思い出もなく、強いて言えば車内販売で買ってもらったアイスクリームが硬かったことぐらいです。 大人になり何度か乗る機会が増えました。車内販売ネタですが、当時流行っていた?粒入りオレンジジュース(缶)を買った時、普通のストローが付いてきました。粒が…詰まるがな。 東京で仕事をしていた時代、帰省に新幹線を使っていました。ある時何かの事故か災害で新幹線ダイヤが乱れており、東京駅で乗る際も買っていた指定券の列車が運休となり、ホームに止まっている列車に乗る羽目になりましたが既に満員、ドア部分の隙間にかろうじて座り込みました。静岡を超えたあたりだったか、突然停電で停車。夏の満員状態でクーラーも止まりました。どれぐらい時間が過ぎたかは覚えていませんが、名古屋に到着した時はヘトヘトでした。それでも特急券だけの払い戻し…。 景色ネタです(これは在来線でも経験はできたかも)。 新幹線に乗っていて外を眺めていると、コンビニの看板が見えます。東京駅をでてしばらくはセブンイレブン(私のコンビニデビューはこれ)が目立っていましたが、途中でサークルKに変わって行きました。今じゃ見られない光景です。 今は大きな街になっている新横浜駅前ですが、昔は何もありませんでした(何もと言うと怒られるかも)。車窓からも遠くがよく見渡せたものです。いつからでしたか開発が始まり、毎年の帰省で通るたびに少しづつ変わっていったのを覚えています。今の姿しか見ていない人には、当時の風景は想像つかないでしょうね。 残念ながら、東海道新幹線そのものの思い出はあまりなく、正直車両への思い入れもそれほどありません。好きなのはドクターイエロー(T4)ぐらいです。
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- マサ(@masa-u)
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私の新幹線の思い出ですが、小学校の修学旅行で同級生と一緒に乗車をした事を覚えています。 父は某自動車メーカーの本社工場で仕事をしていた関係で社員割りかなにかで車を少し安く買えたのか、私が覚えている範囲では「家族旅行は車で行く」というイメージでしたが、さすがに修学旅行は新幹線の利用になって楽しみの一つだったように思います。
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- mekiyan
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新幹線開通の日の学校帰りに、新大阪駅に行って、入場券を買って、ホームに。物凄く格好良くて、ヒコー機から翼を取ったようなデザイン。 中はどんなのかと乗り込んでみたら、座席も3人席でも余裕もあり。そしたら、ドアが閉まり動き出し。そのまま「京都」まで。それで京都で反対側のホームに行って、「新大阪」行きに乗車。結局、「新大阪」と「京都」を往復ただ乗りをしていました。紙コップの水飲み器をありましたな。 今、77歳ですから17歳の高校のときです。 大学は東京で受験したので、高校生の終わりで数回利用しています。ちゃんと切符を買ってです。片道3300円だったかな?大阪-東京は4時間でした。
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- yokohamatakurou
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こんばんは。 今から30年以上も昔の話です。そのころはまだデジタルカメラというものが実用化されておらず、写真は全部フィルムで撮影していました。新聞社などでは取材現場で撮影したフィルムを本社まで運んだり、現像した画像を電送したりしなければ新聞に写真を掲載することができなかったのです。そして、画像を電送するには現地での現像設備や高価な電送機が必要だったし、ネットのない当時は今と違って画像を電送するのには一枚当たり何十分も時間がかかったので、何でもかんでも電送するわけにもいかず、結局人の手で直接運ぶことも多かったのです。 かつてスポーツ新聞社では、プロ野球のナイター取材で撮られたフィルムを球場から運ぶのにバイク便が大活躍しておりました。しかし、春や夏の高校野球のシーズンには、あちこち遠くの県の支部予選の試合も取材しなければならず、そんなに遠いところからバイク便では時間がかかりすぎます。そこでどうするかというと、学生バイトが地方に出張して、現地で取材しているカメラマンから撮影済みのフィルムを預かって、東京の本社まで新幹線に乗って運ぶのです。 当時大学生だったボクはこのバイトを大学の先輩から引き継いでやっておりました。バイト料のほかに往復の新幹線指定席の正規料金と、現地の駅から球場まで、東京駅(または上野駅)から新聞社までのタクシー代が支給されます。新聞社のデスクさんからは「行くときは別に新幹線に乗らなくても、安く移動して浮いた差額を懐に入れても構わない。でも帰りだけはどんなことがあっても絶対に指定された新幹線に遅れず乗って、駅からも必ずタクシーに乗って急いで帰ってきてくれ。締め切り時間がギリギリに設定してあるから、一本でも新幹線に乗り遅れると記事が掲載できなくなる」と厳命されておりました。 主な行き先は静岡県、宮城県、新潟県などの野球場です。特に新潟に行くときなどは、当時は金券屋でバラ売りされていた青春18きっぷを使って、前の日の夜から「快速ムーンライト」という夜行列車に乗っていくのです。これだけで一気に8000円くらい差額を浮かせられるのですから、貧乏学生で鉄ヲタだったボクにとってはたまらない魅力のバイトです。 ある夏のこと、ボクは静岡県の球場に行くことになりました。往路は「こだま」の自由席で行ったのです。球場でカメラマンと落ち合ってフィルムを預かりました。そして帰路に就こうとすると、カメラマンが「いま試合が逆転するかもしれないから、この回が終わるまで待ってくれ」と言い出しました。ボクは「それだと新幹線がギリギリになっちゃうよ」と思いましたが、相手はベテランのカメラマンですから、バイト風情のボクが言い返すこともできません。 しばらく待ったのですが、四球が連続したりして、その回の攻撃はなかなか終わりません。いよいよ新幹線の時間が危うくなってきたのですが、カメラマンも「あと一球」「もう一球だけ」となかなか返してくれません。最後は「もうダメです!」と無理やり振り切ってタクシーに乗り込みました。これで何とかなったと思ったのですが、今度は道が渋滞していてタクシーはなかなか前に進んでくれません。「やばい。これじゃ間に合わない。記事が載らなくなる」とボクは真っ青になりました。 駅までタクシーに乗っていては絶対に間に合わない感じになってきたので、駅の近くで降りて、最後は駅まで猛ダッシュです。まるでバス対鉄道旅の村井軍曹のようです。駅についてホームへの階段を駆け上がっている最中に発車ベルが鳴り始め、やっとの思いで予定の新幹線に飛び乗るのと、車両のドアが閉まるのがほとんど同時でした。 息が鎮まるまでしばらく呆然とたたずんだ後、席が混んでいたので食堂車に行って、何か冷たい飲み物を飲んだような気がします。暑い中を走ってきて、空調の利いた0系新幹線の食堂車がなんとも心地よかったのを覚えています。
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- AlexJenifer
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開通が5歳、最初にのったのは小学校2年生のときです。関東在住の父方の祖父母に会うため、新大阪駅から母と2人で乗りました。(父と弟は数日前に先発)車内販売で買ったサンドイッチ、パンの幅の三分の一しか具がないことに感動しましたね。 高2のとき祖父の葬式に参列するために乗ったとき、食堂車に行ったらなんとなんと、故阿川弘之氏と相席となりました。ちょうど「第三の新人」の小説に嵌まっていたため会話が弾み、食事後もお話を聞かせていただいたのが一生の思い出ですね。 そのあとおそらく100回以上乗ってますが、芸能人を見たこともあれば、泥酔した乱暴者に困って車掌さんを捜し回ったこともあります。
お礼
- himano
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東海道新幹線が開通したのは、私が10歳(小5)の時でした。沿線に住んでいたので学校の窓からも通過する0系新幹線がよく見えました。 始めて乗車したのは20歳の時、某クイズ番組に出場が決まり、新幹線で上京しました。前日から風邪気味で体調も悪く、もともと乗り物に弱いこともあってすっかり乗り物酔いしてしまい、快晴の秋空に車窓から富士山もきれいに見えて乗客は感嘆の声を上げていましたが私は気分が悪くそれどころではありませんでした。クイズのVTR撮りもうまくいきましたが結果は散々でした。でも帰りは緊張がほぐれたせいか酔いもせず快適な旅ができました。50年前の若いころの思い出です。
お礼