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自然は芸術を模倣する
人間が自然を認識する方法や思い描く像は、その人間が生まれ育った環境による影響から逃れ得ない。もしも、その環境に優れた芸術が含まれていれば、当然のこと、その人間の自然を認識する方法や思い描く像にはその影響があらわれる。 あるいは、自然は、人間の認識や感性がいかなるものであろうとも、それとは無関係に存在し変化していく。しかしながら、人間が自然を認識するには、環境による一種の訓練なり教育が必要である。もし、そのなかに優れた芸術作品があったなら、自然についての認識は、その作品の影響を大いに受けたものとなる。だから、理性とは別の次元で、自覚の上では、自然のほうが芸術作品の姿形に変化したようにみえる。例として、単なる霧が、今日は、それが美しく変化したように見える。 さらに深読みすれば、数値化に代表されるような客観的な事実を理解することのみが自然を正しく認識する方法だと考えるのは間違っている。 こんな理解でいいでしょうか。
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- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10004/12512)
以下のとおりお答えします。 >もし、そのなかに優れた芸術作品があったなら、自然についての認識は、その作品の影響を大いに受けたものとなる。だから、理性とは別の次元で、自覚の上では、自然のほうが芸術作品の姿形に変化したようにみえる。 ⇒人間、多かれ少なかれ、Egocentric particular「自己中心的特殊規定」を免れない存在ですから、現代の多様化時代にあっては「自然が芸術を模倣する」と感じる人がいても不思議はないし、いてもよいと思います。そういう感性の発露に接すると、私はその意識構造を詮索してみたくなります。 「自然が芸術を模倣する」観、それがどこから来たか。無意識か意図的か。感じたことか、考えたことか。それとも、単に、自然についての本来的な認識を忘れてか、あるいは無視してか…。 ともあれ、「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)に共感・同感です。 >例として、単なる霧が、今日は、それが美しく変化したように見える。さらに深読みすれば、数値化に代表されるような客観的な事実を理解することのみが自然を正しく認識する方法だと考えるのは間違っている。こんな理解でいいでしょうか。 ⇒古典的写実主義の時代の発言なら、新鮮な驚きをもって迎えられたでしょうね。しかし、それはせいぜい前期印象派あたりの時代までのことだと思います。 キュビズム以降、眼球は、「目に映じる風景を受け入れる窓」から、当該風景を感じる「主観的感性や解釈を吐き出す窓口」になった。つまり、単なる霧が、ある場合は仰せのごとく「美しく変化したように見えたり、憩いの場に見えたりする」ことでしょう。また、別の時、または、別の人にとっては、「妖精の住む妖艶な場であったり、はたまた龍の潜む不気味な場」であったりするかもしれません。 ともあれ、結論として言えることはこうです。目が受け入れ窓口から、吹き出し窓口になった。その吹き出し窓口は、「風景が芸術を模倣するようになった」と見立て、解釈することを自然なこととし、先端を行く現代人の感性と芸術を醇化した。祝福しましょう。^o^🚩
- ノーバン(@nobound)
- ベストアンサー率13% (294/2108)
東京でも、行ったことのない街は、地図を見て、目的地に着いて、あー地図通りだったとか思いますが、本当は、地図が現実通りだったが本当です。 意外に、この認識の錯覚は、人が何を頼っているかなんでしょうか。
- kaitara1
- ベストアンサー率12% (1153/9140)
芸術の対象もやはり自然そのものでしょう。また作品を作るための素材もやはり自然のものでしょう。
いいえ。違います。