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NINTENDO64のソフト開発について

こんにちわ Wikipediaのニンテンドウ64のページにこう書かれています。 ------- 日本市場では上記の原因により苦戦を強いられたが、北米市場においては上記の事態がほとんど起きず、『スーパーマリオ64』や『ゴールデンアイ 007』がNPD調べで500万本以上売り上げるなど有力ソフトがハードを牽引し、累計販売台数2,063万台とSNES(海外版スーパーファミコン)並の市場を築くことに成功した。当時の北米では任天堂と同様に、プログラマが独自でプログラムを組むことが多く、プログラム問題があまり起こらなかった。 ------- https://ja.wikipedia.org/wiki/NINTENDO64 読んでいると、日本では64のゲームソフトを開発できる会社が少なかったようですが、なぜ北米では違ったのでしょうか? 任天堂と同じくプログラマが独自でプログラムを組む、というのが分かりません。日本は違ったのでしょうか? 開発言語が変わった影響ですか? もし、当時をご存知の方がおられましたが、教えて頂きたいです。

みんなの回答

  • yaasan
  • ベストアンサー率22% (2724/12278)
回答No.1

「ゲームの発売延期・中止」の項目に、 世界でシェアを争ったプレステはソフト開発に機材の提供をして、開発を促し、任天堂はそれぞれ独自の開発力に任せた、というふうにあります。任天堂は簡単にソフトを作って、いわゆるクソゲーを世に出しにくくするために対策としてそうしたのですが、そのために日本では、楽にソフト製作できるプレステに流れ、北米では、参加自体のハードルが低い任天堂に流れた(開発機材が安価といわれているが導入なしでは開発できない)、という事ではないかと思います。 独自でプログラム、というのはその開発機材がプレステでは必要だったので、その分の独自性がプレステにはなかったという事ではないかと。

noname#255871
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます! ご回答をお読みして、少し分かってきました。 ・(なぜかは分かりませんが)北米の開発者は自分たちで研究して自分たちで開発環境を作ってソフトを作る人達が多かった ・日本のゲーム開発者は開発環境を整えてもらいたい人が多く(?)、自分たちで研究するのは少数派だった。だから公式が提供する(安価な?)環境で簡単にソフトを作りたがった 日米のIT技術者の質の違いなのか、北米の会社の自由度が高かったせいなのか、日米で使えるお金が違ったのか。。。?でも、ファミコンやスーパーファミコン時代は日本でもそれぞれで自由に開発していはずでは。。。? ------------ ゲーム機に3Dが導入されたことに伴いソフトの開発環境が変化し開発人員も増大した。開発言語が従来のアセンブリ言語からC言語へ変わり、開発環境には、SGIのグラフィックワークステーション、SGI Onyxが使用された。後にSGI Indyも使用された。日本では、安価なMicrosoft Windowsベースの京都マイクロコンピュータ製インサーキット・エミュレータ「PARTNER-N64」も用意された。 ------------ と書いてありますが、これがプレステより開発しにくかったのでしょうかね。謎です。

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