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- 不変な「善」は存在するか?あるなら何?
便乗質問です。 「基本的に」は、善悪は不変ではありません。 これは歴史的に明らかです。 例えば、近代化がなされる前のキリスト教徒にとっては、「異教徒を殺さない事」は「悪」でした。 それを拒否した場合、悪魔の手先とみなされ、異端にかけられ処刑されます。現在は、その逆で「異教徒を殺す事」は、ただの殺人罪になり「悪」です。 例えば、イギリスはタスマニア人を絶滅させましたが、それらの行為は当時のヨーロッパの国際慣習では、主権国として合法的な権利でした。現在は、ジェノサイド条約などの違反になり「悪」です。 例えば、現在は侵略は国際法違反であり、「悪」です。しかし、「侵略が悪」と世界で定着するのは、1945年に51カ国によって署名された国連憲章からです。1917年のアメリカ大統領ウッドロー・ウイルソンの「勝利なき平和」や1928年の不戦条約にもその傾向がありますが、確立するのはやはり1945年であって、それ以前は侵略は「悪」ではありませんでした。 (「侵略」に関しては、佐藤和男青山学院大学名誉教授『憲法九条・侵略戦争・東京裁判』から一部を引用。) と言う事で、これらの歴史的事実を観る限り「基本的に」は、善悪は不変とはいえません。 しかしそんな世の中でありながら、それでも「奇跡的に不変な「善」が守られてきたモノ」はあるでしょうか?これは、人間社会の法則にも関係するかもしれません。 「奇跡的に不変な「善」が守られてきたモノ」は存在するか? もし存在するなら、どのようなものか?
- みなさん、なぜそこまで、結婚したいのですか?
私は男なのですが、男友達含め女性も、社会を上げて『婚活』とか有りますが、なぜみんな、そこまでして結婚したいのですか?? 男友達とかも20代の時にはそこまで言っていませんでしたが、30代入った頃から結婚希望者が増えてきました。 付き合っている人もいないのに結婚願望が有る理由が私にはわかりません。 友人たちは言います、『過去の彼女は結婚対象では無かった』と。 それはそれで、酷いと思いますが。 結婚は、そんなにも価値の有ることなのでしょうか? 小遣い制になり、家を買わされ、嫁に好き勝手言われ、会社や友人の前で愚痴る。 独身の時には自由に出来ていたことも出来なくなり、財布にはジャリ銭。 私の趣味はバックパッカーですが(カンガルー大国へ、いつかは移住したい)、趣味すら制限され、食べたい物も食べれなくなり、乗りたい車にも乗れなくなり、生活全てが拘束されてでも結婚を、みなさんはなぜ、結婚したいのでしょうか? お小遣いが年に20万とか、考えられません。 お小遣いを毎月25万位くれるなら、残った給料で専業主婦してていいので、結婚もアリかな?と思えるかもしれません。 ちなみに私は彼女は居たことも無く、好きな人は何度か出来ましたが、好きな子が出来る=その子の元カレとかに嫉妬して、自己嫌悪に苦しむ→冷静に落ち着く(好きな気持ちが消える)を繰り返し、これからも誰とも付き合わず人生を趣味で満喫したいです。 これからも一人でマンションローンを払いながら、趣味の世界に生きて行こうと思っています。 結婚をしたい方のご意見、お待ちしております。 結婚の価値を、教えてください。᳸
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- panahitaso
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- われわれは阿呆を甘やかしていてよいか
阿呆の代表として 《宇宙の法則》を神とする思考 を挙げます。どうでしょう? 同じやり取りが長すぎませんか? このまま同じくつづくようなら お相手する側も 阿呆に入るのではないですか?
- われわれは阿呆を甘やかしていてよいか
阿呆の代表として 《宇宙の法則》を神とする思考 を挙げます。どうでしょう? 同じやり取りが長すぎませんか? このまま同じくつづくようなら お相手する側も 阿呆に入るのではないですか?
- 言葉は自分をはかる?
たとえば「空は青い」という言葉の意義が知解できるとする。その上で、「で、それがなんなの」という意味反応が自分の中にあるとする。それを知ることが、言葉で自分を測るということ。 時には、「そうだ、そう思う」という意味反応。同じ言葉のものさしがちがった計測値を示す。 意義のレベルでの理解は、感覚的反応がほとんどない。意味のレベルでは「腑に落ちた」ような感覚がある。字義どうりの「空」「青」とは別の意味として「腑に落ちている」場合もある。それは回想を生じさせいるのかもしれない、そしてて、意識は流れていく。 他人のことはよく分からないが、自分のことについては、偽りのない生の反応が感じられるから、まあまあ、測れると思う。 そして、どういう意味反応をする者に、自分はなろうとするかを図ることができるようになると思う。 「言葉は自分をはかる」と、あなたは思いますか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- atomonados
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- 言葉は自分をはかる?
たとえば「空は青い」という言葉の意義が知解できるとする。その上で、「で、それがなんなの」という意味反応が自分の中にあるとする。それを知ることが、言葉で自分を測るということ。 時には、「そうだ、そう思う」という意味反応。同じ言葉のものさしがちがった計測値を示す。 意義のレベルでの理解は、感覚的反応がほとんどない。意味のレベルでは「腑に落ちた」ような感覚がある。字義どうりの「空」「青」とは別の意味として「腑に落ちている」場合もある。それは回想を生じさせいるのかもしれない、そしてて、意識は流れていく。 他人のことはよく分からないが、自分のことについては、偽りのない生の反応が感じられるから、まあまあ、測れると思う。 そして、どういう意味反応をする者に、自分はなろうとするかを図ることができるようになると思う。 「言葉は自分をはかる」と、あなたは思いますか?
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- atomonados
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- 加藤諦三という人
「神経症的な、心に葛藤のある人は強迫的に名誉を求める」というような彼の言葉は、 そのままブーメランですよね?彼の肩書きと著作数の多さが、どう考えてもそれを物語っていると思います。 「劣等感によって動機付けられた行動は、たとえ成功したとしても劣等感を強める」 というような彼の言葉も、やはりブーメランになると思います。 「~~についての本を書く人は、自分が~~だからこそ書く」 というような言葉を自分で言っていますから。 「自分を大きく見せようとすると、本来の自分を否定することになって 自信がなくなる」 というような言葉も同様です。どう考えても、著作数や文体から判断して 自分を大きく見せようとしているとしか思えないので。 著作全般を通して、 少数の例を一般化して「××する人は○○だ」という書き方が多いです。 これは、全か無思考とか、極端な一般化というものであり、 つまり鬱病患者が認知療法によって治療すべき性格傾向です。 彼は「利己主義を親によって禁じられて育てられた」そうですが じぶんがそういう、弱者=読者に対して 「~~する人間は冷たい人間だ、心に葛藤のある人間だ」などといって あらゆる行動を禁じてきているように思います。 まさに「自分の心の葛藤を解決しようとしている」だけなように思います。 これは、心の健康をケアする立場にある人間としてはありえない姿勢だと思います。 あるいは、 江原のりゆきとか細木数子などと同様にみなせば問題ないのでしょうが、 なまじ肩書きがあるため読者に誤解を与えると思います。 彼の著作を読んで人生が大きく狂った人、狂わないまでも悪影響を受けた人など、 ご意見お待ちしています。
- 忘年会で悪者扱い…私が悪いのでしょうか?
先週会社の忘年会がありました。 私の後輩はとても気が利かず、それについて注意をしたところ悪者扱いされてしまいました。 食べ物を取り分けたり、グラスが空いたら先輩にビールを注いだり、食べ終わったものは下げたりなど、そういう事ができない子です。 やろうとしているのはまあ感じましたが、オドオドしていて消極的な子で、見ててイライラしてしまったのもありますが… 見てないでちゃんとやってくれる?出来ない?というニュアンスで注意しました 他にも少し言いましたが、それほどキツく言ったつもりはありません。 というか、もともと思ったことはハッキリ言ってしまうタイプなので、そのせいかもしれません。 注意していると、年配の男性達からお局様になっちまうぞーや、あんまりいびるなーなどというヤジが飛び、それを他の人たちからも爆笑され、とても屈辱的でした… 私の方が正しい事をしているはずなのに、なぜ出来ない人が庇われて私が馬鹿にされなければいけないのでしょうか… 後輩は外で泣いていた?とか泣きそうになってた?のか分かりませんが(人から聞きました)、何だかあざとく感じます。 どちらが悪いと思いますか? 真面目にしている人が損をするのは納得がいかないんです… 私も悪かったかもしれないと反省はしています
- 締切済み
- 社会・職場
- fridaysksk
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- 加藤諦三という人
「神経症的な、心に葛藤のある人は強迫的に名誉を求める」というような彼の言葉は、 そのままブーメランですよね?彼の肩書きと著作数の多さが、どう考えてもそれを物語っていると思います。 「劣等感によって動機付けられた行動は、たとえ成功したとしても劣等感を強める」 というような彼の言葉も、やはりブーメランになると思います。 「~~についての本を書く人は、自分が~~だからこそ書く」 というような言葉を自分で言っていますから。 「自分を大きく見せようとすると、本来の自分を否定することになって 自信がなくなる」 というような言葉も同様です。どう考えても、著作数や文体から判断して 自分を大きく見せようとしているとしか思えないので。 著作全般を通して、 少数の例を一般化して「××する人は○○だ」という書き方が多いです。 これは、全か無思考とか、極端な一般化というものであり、 つまり鬱病患者が認知療法によって治療すべき性格傾向です。 彼は「利己主義を親によって禁じられて育てられた」そうですが じぶんがそういう、弱者=読者に対して 「~~する人間は冷たい人間だ、心に葛藤のある人間だ」などといって あらゆる行動を禁じてきているように思います。 まさに「自分の心の葛藤を解決しようとしている」だけなように思います。 これは、心の健康をケアする立場にある人間としてはありえない姿勢だと思います。 あるいは、 江原のりゆきとか細木数子などと同様にみなせば問題ないのでしょうが、 なまじ肩書きがあるため読者に誤解を与えると思います。 彼の著作を読んで人生が大きく狂った人、狂わないまでも悪影響を受けた人など、 ご意見お待ちしています。
- 認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。
あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。 あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。 理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。 認識から実践へとすすむことを何故しないのか? 実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか? 《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか? 要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか? ちょっと抽象的すぎますか? ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。 在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。 起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか? 哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?
- 認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。
あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。 あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。 理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。 認識から実践へとすすむことを何故しないのか? 実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか? 《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか? 要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか? ちょっと抽象的すぎますか? ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。 在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。 起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか? 哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?
- 赤い羽根募金を拒絶したら、こんな文書が
初めて投稿させていただく、世田谷区在住のものです。 先日、町内会の「赤い羽根募金」を拒絶したのですが、そのあとポストに「**町会各位」との文書が投函されていました。内容は、会員一覧と過去の支払い額履歴なのですが、私の今回の欄のみ毒々しい赤い印字で「支払拒絶」とありました。 現在体調を崩しているのですが、回復したらアクションを起こしたいと考えています。どなたか進め方のアドバイス等いただければ有難く存じます。よろしくお願い申し上げます。
- 締切済み
- その他(法律)
- fukuchan3331
- 回答数10
- 認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。
あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。 あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。 理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。 認識から実践へとすすむことを何故しないのか? 実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか? 《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか? 要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか? ちょっと抽象的すぎますか? ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。 在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。 起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか? 哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?
- 認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。
あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。 あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。 理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。 認識から実践へとすすむことを何故しないのか? 実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか? 《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか? 要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか? ちょっと抽象的すぎますか? ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。 在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。 起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか? 哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?
- 認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。
あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。 あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。 理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。 認識から実践へとすすむことを何故しないのか? 実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか? 《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか? 要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか? ちょっと抽象的すぎますか? ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。 在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。 起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか? 哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?
- 嫌われることについて
仏教のお釈迦様の教えでは、嫌われることは良くないと言われているのでしょうか? また、嫌われないように、周りに不快を与えないように、努力することから逃げていることは、良くない生き方でしょうか? 私は、仕事場で嫌われています。思い当たることは幾つか有ります。 会話に参加しようとしない、声が小さい、人とあまり関わりたくないので、お礼を簡潔に言う、行動時間をずらす等をする、おどおどして見える、心を開けない等です。 雑談をほぼ話しません。 努力し直すようにすれば、変われるかもしれませんが、勇気が無くできておりません。 変われない理由は、嫌いな人が多い、嫌われて傷ついた自分がかわいそうに思う、プライドや相手への怒りなどがあると思います。 心の中では、嫌われても仕方ないと思う反面、自分の陰口を言っているのが耳にはいると、不愉快になります。 ですが、生き方としてお釈迦様が良くないと言われていなければ、このままでいれば勇気を出して傷つかなくてすみます。 以前、変わろうとしてもうまくいかず、会社の人に、おどおどするなと言われたことがあったり、周りへの怒りがあったりと、過去を気にしている部分もあります。 こんな過ごし方に疑問を持ちつつ、悩んでいます。
- 認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。
あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。 あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。 理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。 認識から実践へとすすむことを何故しないのか? 実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか? 《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか? 要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか? ちょっと抽象的すぎますか? ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。 在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。 起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか? 哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?
- 知的障害の人はかわいそうか?
僕の職場に歳は30歳くらいの男性で知的障害の人がいる。 人より学習能力が劣っているというか、要するに頭が弱い。 周りの人の中では彼に同情する人がいる。かわうそうだと。 通常我々が心や体に傷を負った人をみて同情するのは、 自分がその人の立場になれば辛いと思うから、同情するのだと思う。 だから知的障害の人にも同情するのだと思うのだが、しかし 同情されている知的障害の当人は本当に不幸なのだろうか? 仮に痴ほう症やアルツハイマーなどにかかっている人をみて、 同情はあまりしないと思う。 その人の親族など近い人には同情する場合もあるが、その当人自体 には同情はしないだろう。 それと同じことで、親兄弟はたいへんだったことだろうと思うが、 知的障害者の当人に同情する必要があるのだろうか? 実は以前僕は、その知的障害者の人に幸せかどうか聞いたことがある。 彼の答えは、「わからない」だった。 彼は自分が障害者ということを知っている。 そのため生まれつき人よりハンディを背負っていることがわかっているが、 その分得していることも知っている。 楽な仕事を与えられて、早く帰れるし怒られる事もない。 障害者年金もあるのだろうか、パチンコしたり酒を飲みに行く金もある。 はたして彼は本当に不幸で同情するべき人なのだろうか?
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- siyuusukexxx
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- 宗教とは、信仰とは
此のカテや現実社会での幾度かの会話で、自身の信仰こそが正しいと言う発言を、耳目に触れて来ました。 別に良いのですよ?私は。 自分こそが正義で、他人はキ○ガイ。 其れ自体は口に出したり、行動したりしないで、思っている限りは、おつむの中までは手錠は掛けられませんから。 ただ宗教の本質と言うか、存在理由とは何でしょう? 色々語る方は居られるでしょうが、単純に言えば「幸せ」になりたい、か、其れを助ける存在でしょう。 幸せの定義はどうでも良いですが、要は生きる事を助けるモノとして、宗教を求めている訳です。 此れに関しては無神論も同様で、とどのつまりは宗教とは生き方の指針みたいなモノです。 苦行等も、心の呵責を取り除く為の行いで、結局は好きでやっているだけです。 紙切れに書かれた名前で、人生が変わるのであれば、紙が人生になってしまいます。 自分の人生は所詮、自分の人生です。 さて其処で私が問いたいのは、何故に自分こそが正しいと回りに吹聴するのかと。 心理学的な理由は判っています。 複数のパターンが存在しますが、要は自己実現のプロセスです。 私が言いたいのは、「そんなに周りといがみ合う事が幸せなの?」という事です。 其れが好きであるのであれば、仕方が無いのですが、多くの人間は楽しめない行為です。 何色でも良いのですが、此の世を唯一色に染め上げようとする行為は、自分が染め上げられる覚悟が必要です。 実際は染められないし、染まらないけど・・・ 四季が美しいと思う心の方が、余程に楽に生きられると思うのですが、其の前の色眼鏡を外す修行はキツイみたいです。