moooootanのプロフィール
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- 登録日2008/05/11
- 西洋翻訳ものの違和感の理由
昔からよく言われていて、また触れるたびに実感することですが、西洋の文章を翻訳したものに対する違和感というのは解消されないままきている気がします(超訳とかありますがあれは原文を尊重しないのではないでしょうか?)つまり、原文を尊重して訳すと、日本語的な感性からするとおかしいのではないか、ということになり、結果的にすんなり読めない文章になってしまう。 この理由をはっとひらめいたので書いてみます。 まず考え始めたきっかけは、最近(というかここ半世紀くらい右肩上がりということかもしれませんが)反乱しているカタカナ表記についてです。なぜフィーリングやら、プレッシャーやらなんでも日本語を避けるのか。なぜ「感覚」とか「緊張」といわないのか? これは翻訳文学の中に答えがありました。つまり、原文を尊重して翻訳すると、やたら大げさな単語、表現が出てきますよね(ここが違和感の理由です)西洋語の感覚ではすんなりと行く表現が、日本に置き換えると大げさであり誇大的不自然なものになる。 つまり、西洋は、大げさが日常なのです。 逆に言うと、是非はともかくとして、日本語というものあるいは日本的感覚というものは、言語的表現が西欧のそれと比べると貧しい(弱い)のです。 そして、西洋文の持つ雰囲気を自動感知する能力がどういうわけか一般人にあって、「プレッシャー」といえばその言葉の重みは西洋文の中のそれとして自動転換して、「緊張」というと、日本語の中のそれと転換する。ゆえに、「プレッシャー」という単語を日本文の中に挿入する行為は、西洋的文脈の中での「プレッシャー」という単語の重みを、日本文に借用する行為だ。これが、今の世にあふれいてるカタカナ表記のしよう理由なのではないですか?それによって、「誇大」な表現ではなく親しみやすさを(あるいは無責任さと紙一重ですが)あたえて、どんどん氾濫することになった。 それで、この原理をおろそかにしているし、解明もしていないので、翻訳文学は誇大な表現が多く、違和感なく浸透させることの困難さになっていると思われます。 私が今朝至った考えですが、なにかコメントをいただければと思うのですが、妥当な考えでしょう?
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