人文・社会科学
- 国家 地誌
世界を区分する際に国家を用いますよね それ以外だと地域という表現を使うこともよく見られます 国家で区分されるということは承認されているわけで、 そうでない地域は公に承認されていないということですよね 近くの国だと台湾がそれにあてはまると思います 地域としか認めてもらえない側からすると、それって心外なことで、お国の事情がそこにはあるとおもいますが、問題になっていることって他にありますか? 後、国家として区分した方が数も少なくて合理的ですよね 地域で細分化しすぎるとごちゃごちゃになるし、、、 頭のなかではなんとなく分かっていても、この意義も整理できていないので アドバイスしていただくと助かります。
- ドイツ音楽、オーストリア音楽の違いとは?
日本では、 ドイツ・オーストリア音楽と一括りで語ることが多いように思いますが、 ベートーヴェン VS ハイドン、モーツアルト、シューベルト あるいは ブラームス VS ブルックナー と対比しますと、 ドイツ音楽とオーストリア音楽は、かなり違っているように思えます。 ドイツ音楽は構成的なのに対し、オーストリア音楽はメロディアスである。 ベートーヴェンやブラームスとは違い、上記4人のオーストリア系の作曲家はメローディーや主題なんかはすぐにいくつも浮かんだに違いない♪ 誰だか忘れましたが、「ブラームスにはメロディーや主題と言えるべきものはない」なんてことを言っていた人もいたように覚えております。 また、 ドイツ音楽の音色、響きはよく言えば重厚、悪く言えば、厚化粧の女のように厚ぼったく聞こえる。対してオーストリアの音楽は澄んでいると申しましょうか、透明度が高いような印象を受けます。 誰が言ったのかは忘れてしまいましたが、 ブラームスは、音や音色、響きに対して鈍感と言いますか、音色・響き音痴であり、この部分に関して彼は頭で作曲せざるをえなかった、 といったような内容をどこかで読んだ記憶があります。 また、 オーストリア系の作曲家は音そのものに対して本能的な歓びを感じる、 といった話を読んだり聞いた記憶もあります。 どちらの話もクラシックの作曲家によるものだったと思いますが…。 もっとも、バッハやヘンデルのようなバロック期、R.シュトラウスのような作曲家もドイツにはいますので、ドイツ音楽と単純に一括りできないのでしょうが、シューマンの交響曲やワーグナーの楽劇などをダサいと言いますか、垢抜けしていないように聞こえますし、そう感じられます。 そこで、お尋ねします。 1 ドイツ音楽とオーストリア音楽の違いとは? 何が異なるのか? 2 何故にドイツ音楽とオーストリア音楽はかくも違うのか? その理由は? 「いやいや、オーストリア音楽という分類がおかしいのだ。これは、オーストリア、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、イタリアの一部というハプスブルク帝国の枠組みで考えるべきなのだ」 「いやいや、ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームスの毛色が変わっているだけなのだ」 「プロテスタント VS カトリックだ」 などなど、自由な視点、観点からの回答も大歓迎です。 学生の頃から長年抱きつづけている疑問です。 ヨロシクお願いいたします(ペコリ)。
- 締切済み
- 音楽
- NemurinekoNya
- 回答数14
- 一方的に話す人に対する話の聞き方
最適なスレが分からなかったので、専門に学んでる 人がいそうな学問スレにしました。 私は今独学で傾聴、カウンセリングというものを 学ぼうとしています。本当に独学で、こんな人には どう対応すべきかと考え、そのつど本などを読んで 考えています。また仕事とは関係なく、自己啓発です。 私は相手がヤンキーでも年寄りでも子供でも、 特に苦手意識はないのですが、一方的に自分のことを まくし立てる人は苦手です。口を挟むタイミングも なく、ただ相づちを打つしかありません。日常会話 ならこれでも構わないと思いますが、例えばこういう 人の悩みを聞くとしたら、ただ一方的に話させて おけばいいのでしょうか?こういうタイプには 何が正解な反応なのか分からず、日常会話ですらも あたふたします。 人生相談スレだと適当な回答がきそうなので、 心理学スレにしてみましたが、そういう性格傾向 の人に対する適切な接し方はあるのでしょうか?
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- 心理学・社会学
- noname#261884
- 回答数4
- 主観的体験と意識は同じ意味?
感情の定義は「情動の主観的体験」だ。という文章を読みました。 この主観的体験というのは、「意識」という言葉とどう違うのでしょうか。 意識はつねに主観的だと思うし,意識というのは体験だとも思うからです。
- ベストアンサー
- 心理学・社会学
- zorozoro2100
- 回答数2
- 江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?
素人の質問なんですけど、江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?既に貨幣経済が発達していたのだから、農民に年貢米を納めさせるだけでは、いずれ財政が破綻するのは分かりそうなものなのに、当時の人達は疑問を感じなかったのですか?
- シュタッケルベルグモデルの問題について
ある財を生産する3つの企業が存在し、企業1が生産量を決定した後に企業2が生産量を決定し、さらにその後に企業3が生産量を決定するシュタッケルベルグモデルを考える。どの企業も財1単位の生産に10かかるとして、この財の価格PはP=300-Qで定まるとする。企業1,2,3の生産量はq1、q2、q3とする。 (1)企業3の最適反応をq1、q2の関数として求めよ (2)企業2の最適反応をq1の関数として求めよ (3)均衡における企業1の生産量を求めよ という問題で、別の問題の企業が2つの時は解けたのですが、3つだとどうなりますか?素直に解けばいいのでしょうか・・? お時間があれば解答まで解説して頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。
- 言論の自由、と云う思想?はいつ頃からですか。
最近の“言論の自由”に関する質問を見て、いろいろと考える事になりました。 私が初めてこの言葉を聞いたのは随分と前の若いころの事で、漫画の社会に与える害悪を取り締まるべきだとの意見に言論界の人たちが“言論の自由”を阻害するものだと、反発した時のことです。 その時は社会に害悪を与えるんなら取り締まってもいいんじゃないの?と思いながらその線引きをどこにするかが難しい、とも思いました。 もちろん表現者たちは、線引きなんてとんでもない、線引きこそが“言論の自由・表現の自由”を侵すものだとの意見でしょうけど。 今日のニュースではフランスのパリで起きた事件について、ローマ法王がフィリピンへ向かう途中の機内でのコメントを取り上げていました。 それによると法王は「神の名においていかなる殺人もばかげている・他人の信仰を侮辱したり笑うべきでない・信仰の自由も表現の自由もいずれも基本的人権である・これらの権利は他人を傷つけることなく行使されるべきだ」と云っています。 私なんぞは全くその通りと浅い受け止め方しかできませんが、それでも武力と言力?の両者を批判し、自制を求めたのだと思います。 “言論の自由”と云う言葉には、私はいつも“言論の自粛”と云う言葉が浮かんできます。 「ペンは剣よりも強し」と云う言葉は言論界の人たちが云った言葉だと思いますが、それはペンの怖さを知っていると云うことですよね。 たぶん、フランスの風刺漫画家はその事を軽く受け止め、だから“自粛”ができなかったのかもしれません。 言論の自由、また表現の自由という思想?はいつ頃からですか。 マスコミが発達してからでしょうか。昔の西洋の哲学者たちの時代からのことでしょうか。 教えてください。
- 関ヶ原の戦いに寝坊で遅刻した人がいるそうなのですが
関ヶ原の戦いで、(前日に遊郭で遊んでいて?)寝坊、遅刻して参戦できなかった人がいるそうなのですが、どなたかその人の名前をご存知でしたら教えていただけませんか。よろしくお願いします。
- 神 信仰ならびに宗教についての一般理論
哲学カテが 劣化して来ていませんか。 神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。 神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。 人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。 あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。 1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。 2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。 (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知ったものごと) 非経験の場(因果関係から自由な場を想定する) 非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。 (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~ 信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観 -------------------------- 考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教 感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3-1. 《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。 3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。 3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。 4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。 《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。 (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~ =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。 4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。 よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。 4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。 有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。 4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。 4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。 4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。 4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。 4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。
- この連立方程式の解き方おしえてください!
今日試験なのですが、どうしてもこの解き方がわからなくて試験勉強がはかどりません。 よろしくお願いします。